『女性のいない世界』 消えた1億6300万人

村上 浩2012年07月02日 印刷向け表示
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女性のいない世界 性比不均衡がもたらす恐怖のシナリオ
作者:マーラ・ヴィステンドール
出版社:講談社
発売日:2012-06-22
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この数字は、100人の女子に対してどれだけの男子が生まれるかを表した出生性比と呼ばれる数値である。この数字が何を意味するかは、自然な状態での出生性比105と比べる必要がある。上記の中国の出生性比113と自然な出生性比の差はたった8であり、大きな問題ではないと思えるかもしれない。しかし、この比の差を具体的な人数に置き換えると問題の大きさが見えてくる。

本書で紹介されているパリ人口開発研究所のクリストフ・ギルモトによる2005年の研究によると、もしこの過去数十年間自然な性比が維持されていたとしたら、アジア大陸だけでもあと1億6300万人の女性がいた計算になる。つまり、現在のアジアには自然な状態と比べて、日本の総人口よりも多い数の女性が不足しているということだ。

本書は1992年にギルモトが人口統計学の短期調査プロジェクトでインドを訪ねるところから始まる。現地の孤児を引き取る養護施設で働くフランス人ボランティア女性の言葉がギルモトの研究の方向性を大きく変えた。

「見てください、この施設にいるのはほとんどが女の子ですよ。どう思います?」

この地域では女の子ばかりが捨てられ、家庭から放り出されていたのだ。この体験をきっかけに研究の焦点を出生率から出生性比へと切り替えたギルモトは、研究を進める度に新たな驚きと出くわすことになる。捨てられる以前の問題として、女の子が生まれる数が極端に少なかったのだ。また、このような男女比のアンバランスはインドの一地方の問題ではなく、1980年代には韓国、台湾、シンガポールの一部で出生性比が109を越えるなど、多くの地域に広がっていた。

次々と明らかになる驚愕的事実の内、ギルモトを最も驚かせたのはこの問題への国際的無関心だった。国連人口基金をはじめとした主要な団体はこの問題についてはほとんど無言状態。その当時、この問題に警鐘を鳴らしていたのは一部の医師や公衆衛生担当者だけである。というのも、18世紀の終わりにトマス・マルサスが『人口論』で「幾何級数的に増加する人口と算術級数的に増加する食糧の差により人口過剰、すなわち貧困が発生する」と指摘して以来、人口統計学の焦点は出生率と総人口であり続けたからだ。

20世紀に入っても、発展途上国の爆発的な人口増加を背景とした人口過剰への不安に対する解決策が、人口関連研究者たちの追いかけるべきテーマであることに変わりはなかった。そのため、異常な性比の統計が集まり始めたときも、その現象は1人っ子政策や東アジアの文化と結びついたローカルな問題と考えられ、多くの注目を集めることはなかった。

そんな中でもギルモトは研究の手を止めることなく、データと睨めっこを続けることで、コーカサス諸国での性比アンバランスを発見する。そして、この男女比のアンバランスが広がっていく様子は、恐ろしいほどに伝染病が広がっていく様子に似ていることに気が付いた。この現象は、HIVウイルスや鳥インフルエンザのように世間の注目を集めることはないが、確実に世界を侵食し始めていた。

『サイエンス』誌の記者である著者の、この問題に対する本書での取り組みは、ギルモトの研究室を訪ねるところから始まり、世界中の研究結果の俯瞰と現地取材へと展開していく。膨大な調査を元に著者は、“女性のいない世界”の驚くべき実態に迫っていく。なぜ女性はいなくなってしまったのか、実際に女性のいなくなってしまった地域では何が起こっているのか、そこに残された女性にはどんな運命が待ち受けているのか、そして、この状況は今後世界にどのような影響をもたらすのか。

出生性比の偏りを直接的にもたらしているのが、安価な出生前性別判断技術の開発・普及とそれに伴う中絶であるということは間違いない。しかし、なぜその技術が特定の地域で異常な程に用いられているのかの説明は容易ではない。文化的背景や貧困に押し付けられがちなこの問題だが、仏教、イスラム教、ヒンズー教、どのような宗教の国でもこの現象は実際に起こっており、経済の発展は出生性比の偏りを悪化させる。著者が繰り返し主張するように、この問題は、貧しい東アジアのローカルな問題ではないのだ。

複雑に絡み合った要因を丁寧に解きほぐしていくことで、植民地支配がインドに与えた影響、先進国主導で行われた発展途上国での人口抑制政策の副作用、テクノロジーの発達と安易な現場への導入など、アジアで顕在化したこの問題の裏側にある欧米先進諸国の思惑が明らかになっていく過程は衝撃的ですらある。

出生性比の偏りだけでなく、これまでに行われてきた人口政策がもたらした異常な数字が本書には数多く登場する。例えば、1970年代中盤にインディラ・ガンディー首相の息子であるサンジャイ・ガンディーがインドで実施した精管切除キャンペーンの規模は凄まじい。切除に同意した男性には報酬が、同意しない男性には暴力による強制が与えられ、たった1年で620万人のインド人男性を断種してしまったというのだから背筋が凍る。

著者の描き出す“女性のいない世界”の現実は読み進めるのが辛くなる程に悲劇的である。その世界では、女性の希少性が増し、地位が向上すると考えるかもしれないが、現実はその正反対である。女性がいない世界では売春が増え、貧しい国へ嫁を買いに行く男が増え、嫁を買いに行く余裕のない貧しい国ではパートナーの見つからない若い男性が増える。そこは、女性が金銭で売買され、若い独身男性が犯罪を繰り返す世界である。コロンビア大学の経済学者の出生性比と犯罪率の関係に関する研究によると、中国では出生性比1%の増加がその地域の犯罪率を5~6%引き上げているという。

男性過剰はエネルギー・食料資源の枯渇、未知のウイルスによるパンデミック等と同様に、ローカルな問題ではなく、世界的な問題である。男女比アンバランスの問題がその他の諸問題と最も異なるのは、それが近い将来やってくるものではなく、既に世界を蝕んでいるものであるということと、その問題に注意が向けられていないとうことだ。著者は、テクノロジーの進化は今後性別選択以上のものをもたらしつつあると警告する。本書は、今ここにある問題に対する著者の怒りの一冊である。

翻訳ノンフィクショに付き物の巻末の分厚い原注リストは講談社のWebサイトで公開されている(PDFリンク)。原注の内、URLのあるものはリンクが貼ってあり、ワンクリックで元記事に辿り着けるのもありがたい。

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ベビー・ビジネス 生命を売買する新市場の実態 (HARVARD BUSINESS SCHOOL PRESS)
作者:デボラ・L・スパー
出版社:ランダムハウス講談社
発売日:2006-11-23
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不妊治療の歴史を振り返りながら、赤ちゃんが市場でどのように取引されているかに迫ったノンフィクション。人種毎に値段が決められているなど、この本にも驚愕の事実が満載。

『女性のいない世界』は2012年のピュリッツァー賞ファイナリストだが、こちらは2011年のファイナリスト(ちなみに、2011年受賞作は仲野先生大絶賛の『The Emperor of All Maladies』)。こちらも膨大な調査を元に、最後の、そして最強のインディアン一族を描き出す。乱暴なカウボーイと虐げられるインディアンと言う、一元的な見方ではとても説明できない現実がそこにはあった。最強には哀愁がつきものなのかもしれない。上下巻の大著である。

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