情熱と行動『フレンチの侍』

鰐部 祥平2013年02月23日 印刷向け表示
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フレンチの侍
作者:市川 知志
出版社:朝日新聞出版
発売日:2013-01-22
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時に人は思い切った行動をとる。それがどのような理由なのかは人それぞれだろう。情熱に突き動かされることもあれば、周囲の状況に追い詰められての事もあるだろう。理由はともあれ、その行動が人生において、とても重要なターニングポイントになる事は間違いない。人は常に何かを選択し、己とその表現物である、人生というストーリーを形作って行く。本書の主人公であり著者でもあるフレンチシェフ、市川知志の軌跡もそのような物のひとつである。ただし少しだけ大胆で不器用で、そしてちょっとした奇跡のスパイスが効いている。

子供の頃から料理に夢中になることが多かった市川知志は、その興味の赴くまま東京都内の洋食店に就職する。さらにフレンチに魅せられついに単身、渡仏してしまう。著者にとっては初めての海外だ。人見知りの性格でひとりでは、ラーメン店に入ることすら気後れてしまう25歳の青年が、ただフランス料理をもっと知りたいという思いのみに駆られ、単身で修行の旅に出る。しかも労働許可証はない。不法就労である。給料すらもらえるかさえわからない。恐怖と不安に慄きながらのスタートだった。

フランスでの生活は困難を極めた。最初の勤務地であるタン・レルミタージュ村のレストランはC級レベルで、日本人など有色人種の扱いは奴隷並み。フランス料理界にある封建的な制度に著者は常に苦労を強いられることになる。店側にとって日本人は安価な労働力なのだ。だが、そのような扱を受けることの限界に達した市川知志はある日、見習い料理人シェリルを捕まえてブン投げてしまう。「フランス人は会話の民族である」と著者は語る。顔色や空気で回りの意見を察することなどない。そのような意思疎通は通用しないのだ。理論的な言葉こそがフランスでの対人関係では最大の武器なのだ。言葉が通じない市川はフランス人にとって奇異な存在で、蔑みの対象になっていた。

いくつかの店舗を渡り歩き、絶望しかけていた市川がたどり着いたのがバスク地方にある一つ星レストラン「ブリケテニア」だ。オーナーであるイバルボー兄弟は人種的な偏見がなく、仕事場もとてもよい雰囲気だ。料理人仲間とも打解け、仕事に打ち込んでいく。しかしバスクで一番の収穫は、ルルとの友情だ。ルルは60代の男性で未婚。子供も居らず孤独の身上。若いときは船乗りとして世界中を旅した。引退した今では、村の長老株として大いに顔が利く。そんな彼が、市川のことを息子のように扱い、色々と世話をしてくれた。奇跡のような出会いだ。単身乗り込んだ外国で、現地の人と、父子のような厚い信頼関係を築きあげることができたのだ。この出来事が、その後の市川のフランス修行にどれ程のプラスになったことであろうか。

バスクで傷ついた心を癒し、次のステージへと登る市川。新たなステージは三ツ星レストラン、トロワグロだ。トロワグロといえば、「ポール・ボキューズ」「アラン・シャペル」と並ぶフランスが誇る三大レストランだ。当時は「肉の名人」ピエールと彼の息子ミッシェルが店を経営していた。

トロワグロで黙々と働く市川。そんなある日、ミッシェルが、「おい、ナショナル」と声をかけてきた。またしても、プチッとくる市川。彼はミッシェルの非礼をなるべく、冷静に且つ丁寧な言葉使いでたしなめる。「おまえいま、なんて言った」とミッシェル。クビを覚悟する市川。だがミシェルは市川の肩を叩き、フランス語ができるなら言ってくれよ。と屈託なく答える。彼は父のところに飛んでいき「パパ、あいつフランス語をしゃべれるよ」とつげる。

フランスの料理の世界で神のように崇められるピエール。その身に纏ったオーラに負けじと必死で努力する市川を、ピエールも目にかけていたのだろう。言葉が通じるとなると、次々と仕事を任せ、その実力を見定めながら、市川を育てていく。ついには彼をファミリーと同じ待遇にまで引き上げる。トロワグロファミリーの寛大さと、それを引き出した市川の努力に、「スポ根」ドラマでも見たような、爽やかな読後感が吹き抜ける。

現在、市川知志は銀座にある一つ星レストラン「シェ・トモ」のオーナーシェフである。フレンチは金持ちだけの物ではない。という経営方針の下、お手ごろな値段で本格フレンチを提供している。彼の来歴は決してフレンチ界のエリート的なものではない。エリートでないからこそ、そしてフランスの田舎を渡り歩いたからこそ、現在のような経営方針に行き着くことができたのであろう。

裸一貫でフランスに赴き、情熱を唯一の羅針盤に行動し、ついには一流の料理人に変貌していく著者の生き様を読んでいると、人生を形作るのは自らの行動なのだとつくづく思う。誰しもが、自分とは何者なのだろうと思い悩むときがある。しかし、自らが何者なのかを決めるのは自分自身だ。彼はフランスで多くの苦難に耐え、そのひたむきな情熱と努力で、得難い人々との間に、貴重な友情と信頼関係を築き、帰国後もひたすら仕事に打ち込んでいく。その結果がシェフ市川知志となって姿を表しているのだ。情熱とそれに裏づけされた努力が、どれほど人生の可能性を広げるのか。その問いに思いを馳せつつ、最後に著者の言葉を載せて終わることにする。

“若者たちは自分の将来の夢を、小さくまとめてしまっているように思う。僕が嫌いな言葉に「しょうがない」と「無理だが」がある。人はこの言葉をはいた瞬間、何か一つ可能性をなくすような気がする。(中略)自分で勝手に未来を見切らない事だ。捨てる神がいれば拾う神がいることを、僕は身をもって知っている。愚直に努力し続ければ夢は現実になることを、この本で感じてもらえたら幸いだ。”
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