『シークレット・レース ツール・ド・フランスの知られざる内幕』 暴かれた“沈黙の掟”

2013年6月16日 印刷向け表示
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シークレット・レース (小学館文庫)

作者:タイラー ハミルトン
出版社:小学館
発売日:2013-05-08
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『ただマイヨ・ジョーヌのためでなく』というノンフィクションを、この著者でツール・ド・フランスを7連覇した世界王者、ランス・アームストロングを知っているだろうか。

日本人の多くはツール・ド・フランスをはじめとする自転車ロードレースになじみがないが、ここ数年、日本人選手の新城幸也の活躍などで、注目する人が増えてきているように思う。ツール・ド・フランスは今年、記念すべき第100回大会である。フランスのみならず、自転車競技を愛する者にとっては特別な大会であるのだ。6月29日にスタートし7月21日まで、全21ステージを男たちが駆け抜ける。このすべての戦いはJsportで生放送するそうだ。

[youtube]http://www.youtube.com/watch?v=ku_t6qpVoHU[/youtube]

ヨーロッパ勢が圧倒的に強かった1990年代、アメリカ人として互角に戦った初めての選手、それがランス・アームストロングである。頭角を現し始めたころ、彼は睾丸がん(本書による)にかかる。選手生活は絶望視されていたが、復活。がんの闘病と自転車競技への愛を自ら綴った実話が『ただマイヨ・ジョーヌのためでなく』という作品であった。世界中の多くの人を感動させ、社会福祉にも大きく貢献していた英雄。しかし長く囁かれていたドーピング問題に深く関与したと、2012年8月、全米アンチドーピング機関(USADA)は、1998年8月1日以降の記録を全て抹消した上で、アームストロングに対し「永久追放」宣告を行った。

本書『シークレット・レース』は、かつてアームストロングと同じチームに所属し、その後、最大のライバルとなったタイラー・ハミルトンによる告発である。自転車競技のジャーナリスト、ダニエル・コイルに語り下ろす形で書かれ、コイルが取材した側面も詳しい注釈として章ごとに綴られている。彼らはなぜ自転車競技に魅せられたのか、どのようにして世界と肩を並べ、ドーピングの魔の手にからめ取られていったのか。時代のせいにしてはいけないのだろうが、勝たねば、実績を残さなければ、何も手元に残らないプロのスポーツ選手のジレンマが読み取れる。

タイラー・ハミルトンもアームストロングと同じアメリカ人である。身長は172センチ、体重は多い時でも72キロ。目立たないタイプである。たったひとつ、誰にも負けない才能があった。苦痛に耐えるのが得意なのだ。スキー選手としてオリンピック候補にもなったが、背骨の骨折で挫折、トレーニングのために取り入れていた自転車ロードレースの選手に転向した。米国ナショナルチームのメンバーになり、オリンピック候補にも選ばれた。

ランス・アームストロングと年齢はほぼ一緒だが、出会ったころには、彼はすでに大物の仲間入りをしていた。傍若無人、自由奔放なランスに憧れ、ツール・ド・フランスを走る姿をテレビで見て思う。このレースに出場したい。

プロへの道は案外はやくやってきた。アメリカの億万長者が作ったプロチームから誘いを受けたのだ。アメリカ人チームがヨーロッパに行って、ツール・ド・フランスを勝つなんて、フランスで野球チームを作ってワールドシリーズで勝とうとするくらい無謀なことだが、それをやろうとした男がいたのだ。

当然のことながら勝てない。過酷な練習を積み、体重を極限まで減らしても勝てない。まわりを見渡し、気づいたこと、それがドーピングだった。ステロイド、アンフェタミン、そして急速に注目されたのがエリスロポエチン製剤(EPO)だ。血液増強剤として赤血球を増加させ、持久力が20%向上するというものだ。すべての始まりはEPOであったと言っても言い過ぎではないくらい、これを使うとパフォーマンスは確実に向上した。チームドクターは血液のヘマトクリット値をだして、選手の能力を分析する。最初は抵抗があったタイラーも、やがてEPOの注射を受け入れざるを得なくなっていく。勝てなければおしまい。勝負とはそういうものだ。

ガンを克服して自転車競技に戻ってきたアームストロングと同じチームになったのは1998年のことだ。2001年に移籍するまで、彼のアシストを務める。彼の優勝の陰には、必ずハミルトンの姿があった。しかしそれは、帝王のごとく君臨するランス・アームストロングの機嫌を損なわぬよう、彼の優勝を導き出すためにはドーピングはなくてはならないものになった。見つからないように細工された冷蔵庫、注射するためだけに借りたホテル、秘密の符牒、妻の協力も必要だ。細心の注意を払い、合法、非合法の薬を使い続ける。チーム全体がドーピングを見つからないようにするための装置であった。

自転車競技者の日常も驚くべきものだった。自転車に乗る以外は極力動かない。立つより座る、座るより寝る日々。歩くのが何より苦手になり、ホテルに入る階段が上がれずに背負ってもらわなければならない。体重をできるだけ落とすため、さながら拒食症のようになり、手足が細くなればなるほど嬉しくなる。

反対に、過酷なレースシーンは息を飲む迫力だ。誰もが死力を尽くし、険しい山を腰を激しく振りながら登り、崖のような坂を疾駆する。落車は生死をも決し、骨折くらいなら痛みを我慢してもこぎ続ける。1980年代から90年にかけてツール・ド・フランスの平均時速は37.5キロだったのに、1995年から2005年のそれは41.6キロ。パワーが全体に22%増加したことになる。何かがなさなければありえない数字である。

よく麻薬と取締りの関係を“いたちごっこのようだ”と形容する。しかし、ハミルトンはいう。ドーピングは見つかるまで隠れ続ける“かくれんぼ”であると。

EPOと同じくらい成果が期待できるものとして「血液ドーピング」が行われるようになった。

自分の血液を抜き取って冷凍保存しておき,競技の直前に自分のからだに戻し,一時的に体内の酸素量を増加させるドーピング法(大辞林)

結果的にこの方法が、後に大規模なドーピング疑惑を起こすことになり、自転車業界の大スキャンダルに繋がっていく。

強くなりすぎたハミルトンは、アームストロングに疎んじられためチームを離れ、独自で競技生活を続けていたが、失脚させたのは、またしてもアームストロングだったと語る。失意とどん底の日々の果てにたどり着いたのは、ドーピングの告白であった。

本書はランス・アームストロングがドーピングの事実を、頑なに認めていないときに出版されたものだ。ハミルトンのなんとか事実を伝えたいという強い気持ちがこの本を書かせた。しかし出版直後の2013年1月、アームストロングはオプラ・ウィンフリーのテレビ番組「Oprah’s Next Chapter」に出演しドーピングの事実を認めた。かつての帝王は、弱々しかったという。

CYCLINGTIME.com に掲載された「Oprah’s Next Chapter」インタビューのまとめ 前半 後半

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サクリファイス (新潮文庫)

作者:近藤 史恵
出版社:新潮社
発売日:2010-01-28
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自転車競技を知らない人のために薦めたい小説。読み終わった後、タイトルの意味を知る。

争うは本意ならねど ドーピング冤罪を晴らした我那覇和樹と彼を支えた人々の美らゴール

作者:木村 元彦
出版社:集英社インターナショナル
発売日:2011-12-15
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Jリーグのドーピング冤罪事件の真実。栗下直也のレビューはこちら。

決定版-HONZが選んだノンフィクション (単行本)
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