『素数の音楽』文庫解説 by 小川洋子

新潮文庫2013年10月08日 印刷向け表示
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素数の音楽 (新潮文庫)
作者:マーカス デュ・ソートイ
出版社:新潮社
発売日:2013-09-28
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学生の頃、素因数分解が苦手だった。

15=3×5

136=23×17

143=11×13

などと整数を素数の積で表す、というアレである。大体の見当をつけて割り算や掛け算を試してみるのだが、その見当のつけ方がどうもぴたっと決まらない。もたもたしているうちに試験の持ち時間はどんどん過ぎてゆく。

一方優秀な人は、ほとんど考えもせず、一目見ただけで正しく分解し、さっさと先へ進んでゆく。まるで秘密の暗号を使って、こっそり数と心を通わせているかのようだ。

数学者たちは数の世界をさまざまなものにたとえる。詩、宇宙、海、孤峰、神、音楽……。ただそこに存在しているだけで美しいものとして、彼らは数を愛する。すばらしい音楽を聴いて心を震わせるのと変わらない。実用的な見返りなど求めない、純愛なのだ。

劣等生としては、なかなか彼らの純愛に割って入ることは難しいのだが、しかし数の世界の美しさについて、劣等生なりのやり方で感じ取ってはいるのである。例えば、長い込み入った計算の果てに、ある答えが出てくる。もうその時点でへとへとにくたびれ、答えが出てきただけでありがたい気持ちになりつつも、心のどこかに引っ掛かりが残っている。消しゴムのカスやこすれた鉛筆の跡を眺めながら、「ああ、たぶん、これは間違っている」という予感に包まれてしまう。

なぜか。それは答えが美しくないからだ。論理的にどこがどう間違っているか指摘はできない。ただ自分の導き出した答えから立ち上る、何ともいえない不快な感じだけは伝わってくる。解答欄に無理やり押し込められ、居心地が悪そうにしているその数字が、気の毒で仕方ないのだけれど、正解が何なのかはさっぱり分からない。

それに引き換え、秀才の答案用紙は何と美しいことであろうか。一切の無駄がなく、もちろん欠落もなく、毅然としてなおかつ慎ましやかでもあり、世界にただ一点しかない真実の場所を指し示している。丸まった消しゴムカスでさえ、答案の正しさに輝きを添える、1粒の星のように見える。「これほどまでに美しいのだから、間違っているはずがない」どんな劣等生にも、そんな感じ方で正解を教えてくれるところが、数学の魅力だと思う。

その数学の世界にあって、最も神秘的で悩ましい存在なのが素数であるらしい。1と自分自身以外に約数を持たない素数は、数の原子のような役割を果たしている。つまり素数を掛け合わせれば、他のどんな数も作り出せるのである。

ところがそれほどまでに重要な役割を果たす素数が、どのようなパターンで出現するのかが分かっていない。2、3、5、7、11、13、17、19……。素数が無数にあることは証明されているが、どこまでいっても一定の法則がないのか、法則が巨大すぎて見えてこないだけなのかは、証明されていない。

このことで数学者たちは苦しみ抜いている。厳密な永遠の真理を表現しているはずの数学が、気まぐれに出現する素数によって支えられているというのか。この問い掛けの前で苦悶しながら、素数が奏でる音楽を聞き取ろうと、必死に耳を澄ます数学者たちの姿を描いているのが本書である。

著者デュ・ソートイは、素数問題の中心人物リーマンを、数学界のワグナーと呼んでいる。雑音としか思えない素数の響きの下に、繊細な調和があると予想したのがリーマンだからだ。

リーマン予想が証明されれば、数学の経度が発見され、数の大海の海図が作れる。この壮大な発見を夢見て、数多くの天才たちが挑戦を続ける。ガウスからリーマンへ、ヒルベルトへ、ハーディーとリトルウッドへ。彼らは1つのリレーチームのように、国と時代を超え、偉大な謎をバトンにして手渡してゆく。

結局本書は、素数の謎を追い掛けることで、数学者という人間の魅力をあぶり出している。リーマン予想が何なのか分からなくても、素因数分解が苦手でも、数の海図のために人生を捧げた人々の健気さは、胸に迫ってくる。

この予想に関する大家の1人、セルバーグは、

「最後には、解決できると思う。証明不可能な問題だとも思わない。だが、証明が人間の脳ではついていけないくらい複雑である可能性はある」

と言っている。もしかしたらリーマン予想は、人間の次の種に手渡されるべきバトンかもしれない。しかしそれでもひるまず、立ち向かってゆこうとする人間の知性の偉大さに、畏敬の念を抱かずにはいられない。

素数の音楽を聴ける時が来るのはいつだろうか。そのメロディーが美しくないはずはない。劣等生の私にも、もちろんそれは分かるのである。

(作家、「波」2005年9月号より再録)

 
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