『若き物理学徒たちのケンブリッジ』文庫版あとがき by 小山慶太

新潮文庫2013年11月08日 印刷向け表示
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学生スポーツの対抗戦といえば、日本では1903(明治36)年に始まった野球の早慶戦がよく知られている。東京6大学リーグ戦の最終週に開催される伝統の一戦はテレビ中継され、神宮球場は多くの観客で埋め尽される。

一方、イギリスではケンブリッジ大学とオックスフォード大学のボートレースが有名である。こちらもテレビ中継され、レースが行われるロンドンのテムズ河畔はこれまた、観戦を楽しむ大勢の人たちで賑わいをみせる。両校のボートレースは早慶戦よりもさらに古く、1829年からつづいており、それだけに長い歴史と伝統の重みが感じられる。加えて、もうひとつ伝統に華を添えているのが、ケンブリッジ大学ボートクラブが所有するオールである。そこには、同校が輩出した歴代のノーベル賞科学者の名前が金色の文字できらびやかに刻まれている(本書の主人公ラザフォードの名前も見られる)。それはまさに文武両道の象徴であり、大学に身を置く者の1人として、羨望の念を禁じ得ない。

そのケンブリッジ科学の中心となったのが、1871年に創設されたキャヴェンディッシュ研究所である。同研究所からは1904年のレイリーを第1号に1989年のラムゼーまで、実に29人のノーベル賞受賞者が誕生している。しかも、その分野はノーベル賞の科学3部門すべてに渡っているのであるから、圧巻という他はない(物理学賞20人、化学賞6人、医学生理学賞3人)。

嬉しいことに、2000年以降、日本人のノーベル賞科学者が急増し、2012年の時点で16人を数えるに至っている(物理学賞7人、化学賞7人、医学生理学賞2人。うち米国籍の南部陽一郎を含む)。それでもまだ、その実績はケンブリッジのひとつの研究機関に遠く及ばない。対抗ボートレースのレベルの高さと伝統の重みもさることながら、オールに刻まれた綺羅星の如き輝きをみせるケンブリッジの科学者たちの存在は、科学史の中に打ち立てられた金字塔である。

こうした栄光の歴史の中で、キャヴェンディッシュ研究所の黄金期を築き、1920年代から30年代にかけて、原子核物理学という若い学問を発展させた巨人が、同研究所の第4代所長(1919年~37年在職)をつとめ、科学研究における功績で貴族(男爵)に列せられたラザフォードである。

ただし、その晴れやかな経歴とは対照的に、ラザフォードはケンブリッジやオックスフォードを卒業した上層階級の出身ではなく、意外にも、イギリス本国から遠く離れたニュージーランドの移民の子であった。彼自身も24歳で奨学金を得、ケンブリッジに留学するまで、親を手伝い、農作業をつづけていたのである。そして、ニュージーランドで培われた開拓者魂は、物理学の研究においても、みごとに発揮されることになる。

自然科学の価値、真髄は、未開の領野を切り開く独創性にある。科学者を意味する「サイエンティスト」(scientist)という用語が定着する以前の19世紀前半、科学の研究者は知の開拓者(cultivator)と呼ばれていたことがある。ラザフォードはまさしく、20世紀物理学における知の開拓者であった。

歴史を振り返ってみると、1930年代、物質を構成する基本要素(素粒子)は、まだ電子、陽子、中性子の3つしか知られていなかった。電子は1897年、当時、キャヴェンディッシュ研究所長の職にあったJ・J・トムソンによって発見されている。陽子は1920年、ラザフォードによって、その存在が突き止められた。アルファ粒子をさまざまな原子核に衝突させると、常に水素の原子核が叩き出されることを確認したラザフォードは、それがすべての原子核に共通した要素であると考え、陽子と命名したのである。中性子は1932年、ラザフォードの門下生でキャヴェンディッシュ研究所にいたチャドウィックによって発見された。

というわけで、電子も陽子も中性子も基本粒子はすべてケンブリッジで見つけられたのであり、原子核を組み立てている後者の2つの粒子はラザフォードなくしては語れぬものであったといえる。

ところで、チャドウィックの他にも、ラザフォードのもとには数多くの俊秀が集まったことが知られている。教授をつとめたマクギル大学(カナダ)、マンチェスター大学そしてケンブリッジ大学を通し、ラザフォードは驚くべきことに、門下生の中から12人ものノーベル賞受賞者を誕生させている。本人も含めれば、13人が科学界最高の栄誉に浴したという一大学派が築かれたのである。これは、あのアインシュタインも成し得なかった偉業といえる。いや、偉業とたたえるよりもむしろ奇跡と表現した方がふさわしいかもしれない。

スポーツの世界では、名選手必ずしも名監督にあらずという言葉をよく耳にする。同様にドイツの社会学者マックス・ウェーバーが『職業としての学問』(尾高邦雄訳、岩波文庫)の中でいみじくも、「非常にすぐれた学者でありながら、教師としてはまったくだめな人もありうる」と語っているように(物理学者のヘルムホルツや歴史家のランケが引き合いに出されている)、この言葉は学問の世界にも当てはまるようである。それぞれの分野で発揮される実力、才能と指導力は、異なる資質によるものなのであろう。

その点、ラザフォードは超一流の研究者であると同時に、類いまれな名指導者でもあった。2つの資質をみごとに兼ね備えていたのである。ボートレースにたとえれば、ラザフォードは力強い漕ぎ手であり、エイトのメンバーに適切な指示を出し、巧みに舵取りをするコックスでもあった。

ここで、現代の話題に目を向けてみると、2013年、欧州合同原子核研究機構(CERN)が大型ハドロン衝突装置LHC(Large Hadron Collider)を用いた実験から、ヒッグス粒子(物質の質量の源となる粒子)を発見した可能性がきわめて高いという発表を行った。ヒッグス粒子の存在が確認されると、「標準理論」(素粒子の枠組みを与える基本法則)で予言される素粒子がすべて出そろうことになるので、これは大きなニュースとなった。LHCは全周27キロメートルに及ぶ超巨大加速器で、高エネルギーに加速した陽子ビームどうしを正面衝突させる装置である。

このように、素粒子物理学はビームを標的にぶつけ、ビームの散乱のされ方や衝突によって発生する粒子の解析などを通し、ミクロの対象を調べるという方法を実験原理として、めざましい発展を遂げてきた。そしてこの実験原理をおよそ1世紀前に確立したのが、他ならぬラザフォードと彼が率いる一派であった。

その原点は1909年、ラザフォードの指導のもと、ガイガーとマースデンが行ったアルファ線の散乱実験にある。彼らの実験結果にもとづき、1911年、散乱されたアルファ線の角度分布から、ラザフォードが原子の内部構造を明らかにし、原子核の存在を明らかにした経緯は本文で述べたとおりである。ここに、ビームを標的に当て、その反応を通して、目に見えないミクロの世界を探るという新機軸の研究が開始されたのである。

さらに1919年、ラザフォードはアルファ粒子を用いて、原子核の破壊実験に成功している。さきほど触れた1932年のチャドウィックによる中性子の発見も、その延長線上で成し遂げられた成果といえる。そして、同じ年、キャヴェンディッシュ研究所ではコックロフトとウォルトンの手によって開発された陽子ビームの加速装置を用いて、原子核の破壊実験が行われている。

爾来、今日まで、ラザフォード一派がその礎を築いた実験原理が素粒子物理学のメインストリームを形成しているのである。

さて、本書の原本が新潮社から出版されたのは、1995年のことであった。その年、アメリカのフェルミ研究所で行われた粒子衝突実験によって、トップクォークが発見された(クォークは陽子や中性子などを構成する究極の基本粒子。6種類その存在が理論的に予言され、最後に発見されたのがトップクォークであった)。また、CERNで反原子(陽電子と反陽子から成る反水素)が世界で初めて合成されたのも1995年であった。

21世紀に入ると、電子と陽電子の衝突を利用して、粒子と反粒子の崩壊の仕方にわずかな違い(これをCP対称性の破れという)が見られることが、日本とアメリカで行われた実験でそれぞれ確認されている(この成果が2008年、小林誠と益川敏英のノーベル物理学賞につながった)。そして、さきほど取り上げたように、長いこと探し求めてきたヒッグス粒子の発見も、物理学の射程に入ってきたのである。

この他にもニュートリノに関する研究など、本書の原本が刊行された以降も、素粒子物理学の分野では、重要な発見が相次いでなされている。その活況ぶりを目の当たりにすると、ラザフォードが敷いたレールの役割の偉大さをいま、あらためて痛感させられる。

それだけに、こうした発展著しい現代物理学の源流に立ち、知の開拓者として活躍したケンブリッジの巨人の姿を、文庫版を通し、再び多くの読者にお伝えできる機会を得たことは、著者として望外の喜びである。

2013年10月 小山 慶太

 
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