『奴隷にされたソフィー』暴力、支配、売春。

2013年11月28日 印刷向け表示
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奴隷にされたソフィー -見知らぬ国の路上で売られたある女性の物語

作者:ソフィー・ヘイズ
出版社:ティー・オーエンタテインメント
発売日:2013-10-15
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彼女の運命はあまりにも過酷だ。いや、発展途上国などでは日常的に起きている出来事なのかもしれない。たとえそうであっても、それは彼女の身に起きたことへの慰めにはならないだろう。本書は著者自身が体験した悪夢のような出来事を綴ったノンフィクション作品である。先進国という環境で生きる私たちにとって、この出来事はあまりにも遠くの世界に感じる。むろんイギリスの中産階級という環境で生きてきたソフィーにとっても、青天の霹靂のような出来事であったはずだ。

彼女は信頼する男友達を尋ねて、イタリアへと旅立つ。イギリスで経験した苦しみを忘れ、心機一転するために。しかし、信頼していたはずの友人によって、自由を奪われ、売春婦として働くことを強要される。暴力と恐怖に蝕まれながら。

ソフィー・ヘイズはどうも男の巡り合わせが悪いようだ。実の父親は子供たちに常に暴言を吐き、怒鳴り散らしていたという。ソフィーは早くから父に愛してもらうことを諦めたという。父が唱える呪詛のような言葉はソフィーから自信を奪い、対人関係、特に男性との関係を築くという点において心の障壁を築きあげる。

ソフィーはその呪詛により、心の奥底に小さな自己不信の根が張っていた。自分は愛されるに値しない人間だと。そこに隙があったのであろう。彼女を支配し、売春を強要させることになるアルバニア人の売人、カスは巧みに彼女の心を支配していく。

ソフィーを暴力で支配し、売春を強要していたカスは異常なまでに自信家で躊躇なく暴力を振るう冷血漢である。彼は自分の行動に良心の呵責を感じていない。その一方で、数年間続いた友人時代、カスはソフィーの悩みや問題に対し非常に深い共感を示していた。この矛盾するような性格は、以前に私がレビューした、『サイコパス 秘められた能力』で特に凶悪なサイコパスに顕著にみられる特徴として記載されていたことを思い出す。私は心理学者ではないので、カスがサイコパスだと断定はできない。ただ、深い共感と相反するような冷酷さを、時にひとりの人間がその体に共存させている場合があるという点は、心に刻んでおくべきことであろう。

“皿は私の横の壁にガチャンと当たり割れた陶磁器のかけらとパスタと濃厚なソースがそこらじゅうに飛び散った。(中略)泣きながら両手で頭を抱えている私に、カスは大股で近づいてきていきなり髪をつかんだ。完全に理性を失った顔だった。激しい癇癪の発作を起こした乱暴な大きな子供みたいに、殴る蹴るの見境ない暴行が始まった。喉を力いっぱいつかまれて壁に押しつけられたときには、このまま絞殺されると思ったが、カスは私の頭をタイルに叩きつけ、「このあま、どこまでバカなんだよ?」と私の鼻先で声を張り上げた。(中略)カスは私の首をつかんで床から持ち上げ、そのまま足元に投げ落として、また蹴り始めた。「お前がちゃんと掃除しろよ、このくそったれが!」そして、私の顔を床に押しつけて髪でタイルの汚れを拭いたあげくに、体を引っぱり上げて立たせ、「なんだよ、その汚ったねぇ髪は?てめえには自尊心ってもんがないのかよ?」と罵った。”

パスタのソースの出来が気に入らなかったという理由で振るわれた暴力。なにかと理由をつけてはソフィーへの暴力が繰り返される。また強制された売春により、深淵の闇へと沈んでいくかのようなソフィーの心理描写は読んでいて心が痛い。

暴力はカスの性格に起因する面もあるのだろうが、人を理不尽な方法で支配する上ではとても重要な事であろう。外界と隔離し暴力を振るうことで、自尊心と判断力と思考力を奪い、恐怖を相手の心の奥底にまで植えつけ、心身共に自分の支配下におく。現に、ソフィーは暴力の恐怖により、思考力を奪われていた。逃げたら弟をさらってやる、というカスの脅しを信じ、逃げ出そうという考えを持つことができない状態であった。

ところで、一度でも暴力的な組織に属し、日常的に暴力を振るったり、振るわれたりしたことのある人間はわかると思うのだが、暴力とはただ肉体的苦痛を意味する行為ではない。暴力の嵐の中で人は、己の非力さと理不尽な相手の慈悲に縋ろうとする矮小な自分を発見する。その惨めさを一言で表現するならば、自尊心の崩壊である。そう、暴力により生じる恐怖心は自尊心を徹底的に破壊する。

暴力を振るう方も最初は計算づくで暴力を振るっていても、拳を振り上げるごとに止めることのできない怒りの感情が湧いてくる。殴る相手が最初に見せる、反感の目つきがさらに火に油を注ぐ。そして、恐怖心が根付き自尊心を傷つけられた相手の、すがるような目つきにより、サディスティックな高揚感と相手を虫けらのように見下す優越感が生まれる。この快感は暴力にさらに弾みをつける。一度でも、暴力という軌道に足を踏み入れたとき、当事者自身でそこから抜け出すことは難しい。

ソフィーは救出された後も心の傷に苦しむ。しかし、家族や人身取引の撲滅を目指す、「ストップ・ザ・トラフィック」という団体の助けを借りながら少しずつ前に進む。一方で世界の人身取引の被害者の全てが再生への道にいたることができるわけではない。

発展途上国では、今なお男尊女卑的な世界が広がり、被害にあった女性に責任があるような考えが存在する国も少なくない。人身取引に直接の言及はないが、この点などは土屋敦の『名誉の殺人 母、姉妹、娘を手にかけた男たち』のレビューを読めば悲し過ぎる現実が見えてくる。そして人身取引に関してたびたび国連などから非難される日本も、この物語と無縁ではないはずだ。本書の被害者が東南アジア人で舞台が日本であってもなんら不思議ではないのではないか。そう思いながら本書を読み終えた。

Stop The Traffic

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サイコパス 秘められた能力

作者:ケヴィン・ダットン
出版社:NHK出版
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