『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』

2011年10月12日 印刷向け表示
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木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか

作者:増田 俊也
出版社:新潮社
発売日:2011-09-30
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今年も残すところ2ヶ月少々になったが、本書は今年のベストワン候補である。格闘技好きの私は、購入から読了までろくに眠ることができず、読了後も数日間は気が付くとこの本のことを考えていた。こんな本があるから読書はやめられない。もし大富豪だったら本書を大量に買い込んで街中で配って歩いたかもしれないほどだ。

さて、日本プロレス界の父とも言われる力道山の名前は昭和のヒーローとして誰もが一度は耳にしたことがあるだろうが、木村政彦の名前を格闘技ファン以外に知っている人はほとんどいないのではないか。長い間その名前は忘れられていたのだが、この男は「木村の前に木村なく、木村の後に木村なし」と言われた柔道史上最強の人物である。木村政彦の生涯を追った本書はこの男の名前を知らなくても、格闘技ファンでなくても楽しめる。

 

「柔道史上最強」とは言っても木村はロシア革命の起こった1917年生まれである。その全盛期は戦前であり、当時の試合映像も残されておらず、その強さの全容を知ることは容易ではない。年々更新される陸上の世界記録を見れば一目瞭然であるように、あらゆる競技においてトレーニング方法は日進月歩で改善されており、アスリートにとって致命的に重要な栄養状態は戦前と現在では雲泥の差だ。総合格闘技の世界もその例に漏れず、猛烈なスピードで競技レベルが上がり続けている。3年前であれば多くの人が「人類60億分の1」に挙げたエメリヤーエンコ・ヒョードルも既に「最強」の座から引き摺り下ろされており、一世を風靡したグレイシー一族もトップ戦線から脱落して久しい。柔道界にも同じことが起こっているはずだが、それでも多くの柔道家が「最強は木村政彦だ」と断言する。

 

近代的なトレーニングを積み、計算し尽くされた栄養を摂取し、様々な分野の一流コーチの指導を受けていただろう井上康生、小川直也、斉藤仁、山下泰裕や東京五輪で日本柔道界をどん底へ突き落としたヘーシンクよりも木村政彦の方が強いと信じられているのはなぜか。それほど強い男が最近まで忘れられていたのはなぜか。「負けたら腹を切る」と切腹の練習までしていた男が、プロレスラーの力道山に負けてしまったのはなぜか。そして、自らを屈辱のどん底へ叩き落した力道山を殺さなかったのはなぜか。

これらの問いに答えるためには1000点を超える資料、一流格闘家達へのインタビュー、柔道の起源と歴史への探求、2段組で700Pを超えるボリュームが必要だった。格闘技好きならインタビューされている格闘家の名前を聞くだけで胸が高まるはずだ。著者の柔道部の後輩中井祐樹に始まり、世界のTK高阪剛、バカサバイバー青木真也、そしてあのヒクソン・グレイシーまで登場するのだからぞくぞくしてくる。

 

木村政彦の強さが信じられない人は、先ず表紙の写真と本書147Pの写真を見て欲しい。170センチと当時でも格闘家としては決して高いとは言えない身長の木村の肉体には誰もが目を見張るはずだ。本書で披露されている数々の怪力エピソードが常人離れし過ぎていて、「嘘だろ!?」「漫画じゃないんだから」と疑ってしまうかもしれないが、この身体には有無を言わさぬ説得力がある。何しろ突き出した両手の上に100キロのバーベルを乗せて手の先と胸元の間でゴロゴロと転がしたり、道場の暑さにまいっている師匠を畳の縁を持ってあおいだり、80キロのベンチプレスを1時間やり続けたというのだ。このような怪力伝説もさることながら、木村の練習や勝負にかける執念はもはや人のものとは思えない。

 

両親の手伝いで行っていた砂利採りで足腰を鍛えられた木村は子どもの頃から腕力では郡を抜いていた。教壇に乗った自分を同級生たちにカゴのように担がせていた木村少年(この時まだ小学4年生である)は柔道経験者の担任田上先生にその姿が見つかって、同級生の前で何度も投げ飛ばされてしまう。木村はこの屈辱をきっかけに柔道教室に通い始めるのだが、ここまでならそこらの悪ガキによくある話かもしれない。持って生まれた肉体的素質ももちろんだが、木村がその他の悪ガキと最も違ったのは執念ともいえる勝利への意思の強さではないだろうか。何しろどんな怪我をしても練習を1日たりとも休まないのだ。怪我をしている息子を心配して練習に行くのを止めようとする母を振り切ってまで練習に行く理由が、「一日休むと先生への復讐の日が一日遅れる」というものなのだから恐れ入る。こんな小学4年生はもう二度とあらわれないだろう。

 

成長してもその勝負に対する姿勢は変わることはなく、木村は睡眠時間を削って1日10時間の練習を積み重ねる。乱取りだけで毎日100本以上こなしていた木村の練習はそんじゃそこらの相手では成立しないので、様々な場所へ出稽古に行くこととなる。強豪大学柔道部の道場に一人で乗り込んだ木村は40~50人を得意の大外刈りで投げまくり、多くの人間を脳震盪で立てなくしてしまった。このとき38度以上の熱があったというのだからもうどこに驚けばいいのかわからない。

このとんでもない練習を支えたのはやはり勝ちに対する執念だ。練習で膝をつかされた相手(投げられたわけではない)のことが頭を離れず眠れなくなってしまった木村は、刃物を持ってその相手を刺し殺してしまいそうになり、ぎりぎりで思いとどまったこともあるそうだ。何から何まで規格外。こういう男にこそ「最強」の名は相応しい。

 

この柔道史上における最高傑作には偉大な師匠がいる。最強木村もこの師匠の前でだけはいつまでも緊張しており、その命令には絶対服従だった。何しろこの師匠の名前は牛島辰熊だ。牛で、辰で、そんでもって熊なのだ。怖くないはずがない、強くないはずがない。その日本人離れした彫の深い顔からも凄みが伝わってくる。明治神宮大会三連覇に加え全日本選士権二連覇で柔道日本一に五度も輝いている「鬼」と呼ばれた男であり、その伝説のスケールの大きさは木村に負けずとも劣らない。木村にも言えることだが、この時代の柔道日本一は現在の柔道日本一とは重みが異なる。競技人口からして格段に違うのだ。ただし、柔道界最強の男として君臨していた牛島も天覧試合だけは優勝することができなかった。優勝を手に出来なかった天覧試合にかける思いが、牛島の後進育成への思いを加速し、木村との出会いを導いた。貧しい家庭状況から柔道を諦めかけていた木村を拓殖大学へスカウトし、自宅を改造した「牛島塾」へ下宿させたこの牛島がいなければ、木村も「史上最強」にはなれなかっただろう。

 

強さを追い求める姿勢は牛島と木村で同じだが、柔道以外での考え方は師弟で大きく異なっていた。柔道引退後は毎晩のように酒を飲み、女を買い、喧嘩をしていた木村とは異なり、牛島は戦時中には東條英機の暗殺を本気で企てるほどの厳格な愛国者だ。石原莞爾と積極的に関わっていた時期もある。東條暗殺の下手人に木村を指名するという一見とんでもない行動に出ることになるのだが、「弟子に無理難題を押し付ける身勝手な師匠だ」と彼らの師弟関係を現在の物差しで理解しようとするのは野暮なことだ。この最強師弟の絆も本書の見所の一つである。

 

15年不敗、13年連続日本一、そして師匠の手が届かなかった天覧試合を制覇した木村だが、本当の全盛期は戦争によって奪われてしまう。戦中は上官相手に、戦後はMP相手に暴れまくる木村の姿は痛快そのものだが、この時期にも柔道の大会が開催されていれば間違いなく連続優勝記録を伸ばしていただろう。その伝説も見たかったと思うのは贅沢すぎる望みだろうか。

戦後は闇屋などをやりながら家族を養っていた木村だが、牛島の誘いによってプロ柔道に参加することとなる。“講道館柔道における最大の汚点”と言われるこのプロ柔道も立ち上げ当初こそ「最強木村」の知名度で順調に人を集めていたが、杜撰な運営で次第に経営が立ち行かなくなる。この後、結核の妻の薬代を稼ぐために海外へ活躍の場を求めることとなる木村だが、あることが原因で師匠との間に大きな亀裂ができてしまう。著者はどちらが悪いわけでもなく、時代が悪かったと述べるが、最強の男も戦争の大きなうねりには抗うことができなかった。

 

木村政彦を語る上で欠かせない試合がブラジルで行われている。対戦相手の名前はエリオ・グレイシー。あのヒクソン・グレイシー、ホイス・グレイシーの父親である。エリオは兄のカルロスから柔道の指導を受けており、このカルロスに柔道を教えたのは日本人である(ブラジルと聞けば「柔道」よりも「柔術」を思い浮かべるだろうが、本書ではその違いについても詳細に検証されており、柔道の歴史を俯瞰できる)。その日本人とは1914年にブラジルの地を踏むコンデ・コマこと前田光世。前田は当地で行われる異種格闘技戦であらゆる格闘家を打ち破っていた。身長164センチ、68キロの前田が大きな外国人を手玉に取れるほど当時の日本柔道はレベルが高かったのだ。この前田が地球の裏側で広めた柔術界最強の男エリオと日本が生んだ怪物木村の戦いが盛り上がらないはずがない。1951年10月23日マラカナンスタジアムに3~4万人も集めたこの試合の映像は今もYoutubeなどで確認できる。本書には一流の格闘家によるこの試合の解説があるのでぜひ動画と一緒に確認して欲しい。

 

エリオの息子ホイスは1993年に開催された何でもありの総合格闘技大会UFC第一回大会を圧倒的強さで優勝している。体重制限なし、判定なし、何でもありの試合で体重80キロそこそこの男が優勝したことに世界中が驚いたが、試合後開かれた会見でグレイシー一族がマサヒコ・キムラの名前を挙げたことで、日本の関係者はもう一度驚いた。日本人らしきその男の名前を格闘技関係者すら知らなかったのだ。木村政彦の名前はそれほど忘れられていた。ちなみにこのUFC、今ではFOX系列で全米中継される程のお化けイベントに成長している。今や世界中の男が最強を目指す舞台はこのUFCだ。数年前のPRIDE全盛期には世界中の男が日本を目指していたことを思うと寂しいものだ。当時ブラジルの格闘家達の多くが「日本ほど格闘家が尊敬される国はない」と言っていたが、強い格闘家を生み出す土壌は失われていないと信じたい。

 

ブラジルでの死闘の後木村はプロレスの道を進んでいくことになるのだが、その道の先にはもう一人の怪物力道山が待っていた。2人の怪物の運命は1954年12月22日蔵前国技館、まだ2局しかないテレビ両局での同時生中継、視聴率100%の全国民注目の中で交錯する。この1戦こそが著者にこの大作を書かせることになったきっかけである。本書には著者の木村政彦の強さへの強烈な想いが溢れている。著者は木村政彦こそが最強であると一部の迷いもなく信じている。信じているからこそ徹底的に確かめなければならなかった。なぜ最強のはずの木村政彦が負けたのか。この一戦を巡っては様々な言説が流布しているが、その全てを一次資料に当たって確かめていく。

 

この一戦の後木村は世界を放浪することになるのだが、最後は木村が一番輝いていた場所、拓殖大学へ監督として帰ってくる。ここで木村を拓大へと導いたのはまたもや師匠牛島だった。疎遠になっていた二人を再び結びつけたのはやはり柔道だ。牛島が木村を見つけたように、監督としての木村は岩釣兼生を見つけることになる。牛島-木村と木村-岩釣の関係性は当然同じではないが、最強を目指す想い、師匠と弟子の信頼関係は変わらない。岩釣もまた木村の鬼の指導の下で修羅のように強さを追い求めて練習する。親子とも恋人とも異なるこの2人の関係性は単なる師弟関係とは言い難いものがある。岩釣が死の間際に著者に公開を許可した事実は衝撃的であり、木村の強さを更に不動のものとする。

 

木村政彦の魅力はその強さだけではない。圧倒的な強さ以外にも人を惹きつけて止まない何かが木村にはあった。子供のようにいたずらをする姿、外では自由に遊びながらも一途に妻を愛し続ける姿、師匠からこそこそ逃げ隠れする姿、弟子に全身全霊で向き合う姿、人間離れした強さを持つ木村の誰よりも人間らしい姿のどれもが魅力的だ。生前の木村を知る人たちはインタビューの後で、「木村先生の話をしたら、木村先生に会いたくなった」と語ったそうだ。

本書を読めば、木村政彦が史上最強の柔道家であることがよくわかる。木村政彦がなぜこれほど人を惹きつけるのかがよくわかる。そして、あなたも木村政彦に会いたくなる。

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読了後身体を動かさずにいられない肉体系一冊といえばこちら。この本で走り始めた人は多いはず。街中でVFF(5本指シューズ)を見かけることも多くなりました。

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『グラップラー刃牙』の著者が現代に生きる達人たちに文字通り体当たりで取材する一冊。格闘技をやっている人の凄さが伝わってきます。

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小学生だった私を格闘技好きにした一冊。この後本当に漫画ようにK-1、PRIDEが盛り上がっていくのをリアルタイムで経験できたのは幸運。

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格闘技興行が到達できる頂点の一つではないだろうか。友人に誘われたのに会場に行かなかったことを今でも後悔。この頃のノゲイラの寝技、無差別級を制した日のミルコの打撃に木村がどのように対応するか見てみたい。

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