『我が足を信じて』 -荒野の囚人

2012年5月29日 印刷向け表示
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我が足を信じて 極寒のシベリアを脱出、故国に生還した男の物語

作者:著者:ヨーゼフ・マルティン・バウアー 訳者:平野 純一
出版社:文芸社
発売日:2012-05-01
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フォレル、もし妻に会ったら…いや…妻に会った時、次のように話してくれ。私自身は帰ることができなかったので、君を送り出したと。妻に言ってくれ、私は脱出の準備が全てできていて、最初はトムスクにいた時試みたが成功しなかった。そして、今度はこの病院から、もう一度やってみるつもりだった。

奥さんにはこう言いましょう。私は、あなたのご主人であるシュタウファ医師から…

ハインツ・シュタウファだ。

ハインツ・シュタウファ医師が、私を送り出しました。それは、ご主人が自分では来られなかったからです。ご主人はトムスクにいる時に脱出を試みました。そして、イースト・ケープの病院から、もう一度挑戦しようとしましたが、残念ながら、

『1949年の冬、亡くなりました』と。それから、通常、我々を葬るバラックの後ろの土地の情景を、妻に説明してやってくれないか。妻はクリスチャンなんだ、フォレル。だから、私の墓の上には十字架があると—

こんなふうに言ったほうがいいな。『ご主人は1950年3月に亡くなられました』と。このほうがいくらか侘しくなく響く。春が近づいていて、『雪がほとんどとけていた』とも言えるだろう。

幸運を祈る…

1949年10月29日、4年近くに及ぶ強制労働の後の、3年2カ月に及ぶ脱出行の始まりだ。クレメンス・フォレル(仮名)は第二次大戦中、ソビエト連邦において捕虜となり、シベリアでの重労働25年の刑を言い渡された。半数近い死者を出しながら、シベリア鉄道と犬ぞりを乗り継いで送られた先は、北緯66度・ユーラシア大陸の最東端、イースト・ケープの鉛鉱山だ。深地下のほの暗い場所に閉じ込められ、陽の光に当たるのが許されるのは一週間か二週間に一度という生活である。鉛中毒に侵されつつあったフォレルだったが、収容所の医師であり、偶然にもフォレルの兄の学友でもあったシュタウファが、脱出の話を提案する相手に選んだ。夜9時、医師が警備兵を引き留めている間に、病院を抜け出す。ほぼ北極圏の収容所は、我慢できない程の激しい風雪だ。こういう時に限って片手の手袋を吹き飛ばされ、何度も顔から転んだ。30分ほどの悪戦苦闘の後、まだ後方には収容所の灯りが見えていた。目指すは、大陸の反対側、14000km先のミュンヘンだ。

凍傷を避けるため、自分の服をテント代わりにして寝た。コンパスをたよりに、膨大な数の歩数を数え、どれくらい離れたかを概算した。声が出なくならないよう独り言を言って歩く。シュタウファ医師が言ったとおり、たとえ自分自身の声であっても、人の声を聞くことは慰めになった。「人間はどんなことにでも慣れるものだ」「もし必要なら、死ぬことにさえも」

脱出後に最初に出会った(出会ってしまった)のは、奇妙な言葉を話すトナカイ番の男たちだった。お互いに自分の言葉で身振り手振りで話した結果、「アー!ニェメツ(ドイツ人)」と、事の重大さが理解され、そして、礼儀正しくお辞儀をされた。「会話とは、身振り手振りの仕草と顔の表情で話すものであって、言葉は単なるつけ足しに過ぎなかったのだ。」フォレルはこのまま彼らのコルホーズ(集団農場)まで案内され、グートというあだ名になり、大河を渡る手助けをしてもらうことになった。この後も、数々の場面において、もしこれが作り話だったら「そんなうまい話はないよ」と一笑されそうな、見返りが期待されない手助けがフォレルを救うことになる(その中にはユダヤ人もいる!)。そこで語られるのは、「同情からこんなことをやっているんじゃないぞ、いいな」「俺たちに金は要らない」といった言葉だ。その一方で、問題が起きたら困るから、と追い出されたり、必死で河を泳いで渡っているところを、通りかかった船の客から嘲笑されたり、金のために殺されそうになったりもする。ヤクート人のコルカがフォレルに言う。

ここは見捨てられ、追放された者の国なのだ。ぼろをまとい、餓死しかけたシュトラフスキ(懲罰刑を受けた軍人)は、ここでは親切以外には何も見つけられないだろう。不信感を呼び起こすのは自由と幸運なのだ。もし誰かが、あんたがどこに行こうとしているのか、そして誰なのかを知りたがったら、自分は仕事に向かう囚人だ、と言うことだ。

遂にソビエトを抜けた時には、あまりにも変わり果てた姿に本人確認ができなかった。本人が、戦前の自分の写真を見て笑い出したほどだ。最後の決め手になったのは、母に送った誕生日祝いの写真だった。少年時代、写真複製技術者になりたいと思っていた人らしいエンディングだ。本国ドイツでベストセラーになり、世界の15の言語に訳され3000万部を売り上げた実話である。


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