『キャパの十字架』 - 沈黙のミステリー

2013年2月21日 印刷向け表示
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キャパの十字架

作者:沢木 耕太郎
出版社:文藝春秋
発売日:2013-02-17
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“ここに一枚の写真がある。”

「崩れ落ちる兵士」(出典:Wikipedia)

そんな静かな書き出しに誘われてこの写真を目にした時には、この構図、この画角、太陽の位置、山の稜線、銃の角度、兵士の影に、ここまで深い意味が含まれているとは想像できなかった。ましてや一人の男の生きた軌跡が、陰影まで刻みこまれているとは… 

「崩れ落ちる兵士」 ー それは写真機というものが発明されて以来、最も有名になった写真の一枚である。中でも、写真が報道の主要な手段となって発達したフォト・ジャーナリズムの分野においては、これ以上繰り返し印刷された写真はないとも言われてきた。 

スペイン戦争時に共和国軍兵士が敵である反乱軍の銃弾に当たって倒れるところを撮ったとされるこの写真は、雄弁であった。やがて崩壊するスペイン共和国の運命を予告するものとなり、実際に崩壊してからは、そのために戦った兵士たちの栄光と悲惨を象徴する写真となって世界中に広く流布されることになるのだ。 

だが、この写真を撮ったとされるロバート・キャパは、「崩れ落ちる兵士」について、どこまでも寡黙であった。キャパ自身の手でキャプションをつけなかっただけではなく、この写真についてオフィシャルにはほとんど何も語っていないのだ。それゆえに「崩れ落ちる兵士」は、本来の文脈を離れて別の意味を付与されるようになってしまった作品とも言える。

この写真に関しては、いくつもの謎が残されていた。だが、この写真の持つ衝撃力によって、その謎が謎として真正面から取り上げられることもなかった。その結果、キャパの「崩れ落ちる兵士」の写真は以下のように定義されることとなったのである。

1936年9月5日前後、セロ・ムリアーノで、共和国軍兵士フェデリコ・ボレルが反乱軍の銃弾を受けて倒れるところを撮った写真である。

ところが1970年代に入ると、その真贋がはっきりとした形で、問題として表面化してくる。あの写真は本当に撃たれたところを撮ったものなのか?かりに「真」だとしても、あのように見事に撃たれた瞬間を撮れるものだろうか。同時に、もし「贋」だとするなら、あのように見事に倒れることができるだろうか、と。 

キャパの沈黙が生み出したミステリー。そこに挑むのはノンフィクション界の巨匠、沢木 耕太郎だ。 

「崩れ落ちる兵士」が撮影された、スペインに赴くこと三度。沢木が行くたびに「崩れ落ちる兵士」の定説は「崩れ落ちる」ことになる。一度目の訪問では地元での先行研究などにより、写真が撮られた場所がセロ・ムリアーノではなくエスペホであったこと、また使用されたカメラがキャパ愛用のライカではなくローライフレックスであったことの可能性が示唆される。

そこで俄然、注目を浴びてくるのが、キャパの運命を劇的に変えたゲルダ・タローという女性についてである。そもそもロバート=キャパという名前は彼の本名ではなく、その名をアンドレ・フリードマンという。

このアンドレ・フリードマンとゲルダの二人は、架空の人物である「ロバート・キャパ」をプロジェクト的に作り出し、アメリカの著名なカメラマンを装っていたのだ。その際にゲルダが頻繁に使用していたカメラこそが、ローライフレックスであったのだという。はたして「崩れて落ちる兵士」を撮ったのは、どちらであったのか?

日本に戻ってきてからも、沢木は同じ時に撮られた一群の43枚の写真をつぶさに眺め、新たなる新説に思いを巡らせる。そんなスペインと日本の度重なる往復により、少しづつ明らかになっていく真実。どのステージにおいても、同じ濃度の驚きがあり、最後まで飽きさせない。

沢木の推理は全て、「崩れ落ちる兵士」の写真が戦闘中に撃たれたところを撮ったものではないという方向へ集約されていく。彼の出した結論は、「真」にして「贋」。あのように倒れたことは「真」であるが、撃たれたことは「贋」である、というものであった。

さらに謎解き以上に興味深いのは、その写真に付与された文脈によって、キャパ自身の運命がどのように変わっていったのかということである。キャパはこの「崩れ落ちる兵士」の一枚で、無名のアンドレ・フリードマンから、世界的に有名なロバート・キャパになることを運命づけられた。

もし彼自身がその写真を撮ったのではないとすると、その出来事をきっかけに彼が大きな十字架を背負ってしまったということは想像に難くない。図らずもフォト・ジャーナリズムの伝説の中に生きることになったキャパは、心中ひそかに、少なくともこの「崩れ落ちる兵士」に匹敵するものを、自分自身の手で一度は撮らなくてはならないと考えるようになったに違いないからである。

このような「崩れ落ちる兵士」の真実を、執拗に追求する沢木の行動は、ある意味において残酷だと思う。だが、ロバート・キャパの虚像を白日の下に晒したにもかかわらず、不思議なくらいに爽やかな読後感があった。 

それは、虚像を真実の対極として描くのではなく、虚像もまた真実の一部であると描いた点によるところが大きい。そこには「視るだけのもの」としての哀しみ、「人の痛苦しか記録できない」辛さ、そんな思いを味わったもの同士にしか分かりえない、心優しき目線と、深い共感が存在しているのだ。

沢木が唱えた新説が、正しいのかどうかは分からない。ただ、真実を追求することによって、全く新しいロバート・キャパ像を鮮やかに描き出したという点に、本書の本質があるものと考える。
 

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本書でも頻繁に登場する、ロバート・キャパ関連の書籍。

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