無私が人を救う。『命のビザを繋いだ男』

2013年5月25日 印刷向け表示
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命のビザを繋いだ男―小辻節三とユダヤ難民

作者:山田 純大
出版社:NHK出版
発売日:2013-04-23
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その男は今、エルサレムの墓地に眠っている。

日本人として初めて審問を受けて正統派ユダヤ教に改宗し、74歳で永眠すると、彼を慕う多くのユダヤ人たちの手によって、その遺体はイスラエルに埋葬された。

彼こそが「命のビザを繋いだ男」、小辻節三だ。

「命のビザ」といえば、杉原千畝だ。1940年、ナチスの迫害に追われてリトアニア日本領事館に逃げ込んだ多くのユダヤ難民たちに、本国外務省の訓令を無視して独断でビザを発給し、「日本のシンドラー」といわれたその偉業は、広く知られている。

でも、杉原が発給したのはあくまで通過ビザであり、許可された日本滞在期間はせいぜい10日程度だったことは、あまり知られていない。最終受入国の入国ビザなど持っていない大半のユダヤ難民たちは、わずか2週間ほどで次の受入国を固めて、出立の船便まで確保しなければならなかった。ビザの有効期限が切れると、本国に強制送還されてしまう。それは、「死」を意味していた。

この絶望的な状況を救ったのが、小辻節三だった。彼らを救うために奔走し、ビザの延長を勝ち取ることで、「命のビザ」を本物の命にしてみせた「もう1人のシンドラー」。本書はそんな小辻節三の人生を辿ったノンフィクションだ。それはもう、驚きと感動の連続。心を震わせずに読むことは、きっとできない。

 

1940年、日本に上陸しながらもビザ延長が叶わず、追い込まれたユダヤ人の1人が、小辻に手紙を書いたことから、この物語は始まる。手紙を受けた小辻は、全てを投げ打ってすぐに動いたが、状況は困難を極めた。外務省に直談判するも、要請は全く聞き入れられない。ビザの期限は、わずか10日程度。時間がない。その時、小辻が頼ったのは外務大臣の松岡洋右だった。実はその前年まで、小辻は当事満鉄総裁だった松岡に顧問として仕えていたのだ。

小辻は切り出した。

「日本の良心を呼び覚まそうと、私は必死なのです。ですが、私の力が及びませんでした」

その言葉に、松岡洋右は応じた。

「小辻博士、大臣としてではなく、今から友として話さなければならない。だからここでは話せない。外で話そう」

軍部の圧力もあって、外務省の政策は変えられない。でも、松岡は続けた。

「一つだけ可能性がある。ユダヤ難民のビザを延長させる権限は、神戸の自治体にある。自治体の行うことに政府は基本的に関与しない。(中略)もし、君が自治体を動かすことができたなら、外務省はそのことを見て見ぬふりをしよう。それは友人として約束する」

 

ちなみに、この時の小辻は、ユダヤ問題に精通していたとはいえ、一介の学者に過ぎない。それでも、彼の本気と熱意は時の外務大臣を動かした。立場を越えて信念で人を動かすその交渉力は、本当に凄い。立場に逃げることも、「現実」という言葉で心の壁を勝手に作ることもなく、ただ立ち向かう。それも自分のためではなく、ただユダヤ難民たちのために。むしろ自分を捨てて、「無私」の心で。少なくとも私は、強烈に心を打たれた。小辻の無私にも、それに応えた松岡洋右にも。

そして小辻は、今度は自治体を動かすのだが、そのために取った戦略がまた凄い。それは、「友」になることだった。知人の資産家を頼って資金を得ると、その金で、ユダヤ問題に一言も触れることなく、三日三晩にわたる最上級の接待を仕掛けたのだ。そして三日目の晩、ついに本題に切り込むと、「友」は動いた。そう、ビザ延長を認めたのだ。大胆にして見事。相手の懐に飛び込み、魂をもって魂を動かす巧みな人心掌握術も本当に素晴らしい。そもそもビザの有効期限が10日ほどしかないというぎりぎりの状況で、三日三晩を惜しげもなく投入するその胆力も傑出している。

ちなみに私はこのエピソードを読んで、ホテル・ルワンダの支配人のことを思い出した。彼もまた高級酒を使って軍人たちとの人間関係を構築していったが、肝の据わった本物の傑物が、極限状況での交渉を迫られた時、どこか普遍的なスタンスというものがあるのかもしれない。自分の都合をまずは捨て去り、「無私」の心で相手のハートの一番奥を掴まえる。戦略を常に持ちながらも、「人間の交渉」なのだという要諦を決して外さない。例えば、そういったものが。

 

小辻節三は、亡くなる直前に呟いていたそうだ。

「百年以内に誰か、自分をわかってくれる人が現われるだろう」

これほどの功績を残しながら、小辻節三が自らの行為を誰かに誇ったことは、一度としてなかったそうだ。いかにも小辻らしい。自分のためではなく、あくまで「無私」を貫いたのだから。

でも、百年も待つことはない。現代を生きる私たち日本人は、今、小辻節三の人生を読み返してみてもいいはずだ。本書が、その貴重なきっかけとなることを願ってやまない。そして本書を通じて、多くの人に堪能してもらいたい。

無私が人を助け、人が無私を助ける、その美しい物語を。

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