『家庭の科学』訳者あとがき by 三枝小夜子

新潮文庫2014年02月12日 印刷向け表示
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家庭の科学 (新潮文庫)
作者:ピーター・J. ベントリー
出版社:新潮社
発売日:2014-01-29
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本書は、イギリスのユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン(UCL)ンピューターサイエンス学科の名誉上級研究員であるピーター・J・ベントリーの一般向けの科学書『The Undercover Scientist』を翻訳したものである。

ベントリーは、遺伝的アルゴリズム、進化的計算、人工免疫系、群知能などの複雑系の技術を、設計、制御、ロボット工学、ナノテクノロジー、不正検出、モバイル無線装置、セキュリティー、アート、作曲などに応用する方法を研究している。彼の目標は、生物のように環境と相互作用し、子孫をつくり、適応し、進化していく人工システムを開発することであるという。彼はこれまでに150本以上の論文を発表し、コンピューターに関する専門書を執筆する傍ら、本書のような一般向けの科学書を執筆し、公開講演を行い、ラジオやテレビに出演し、英国王立科学研究所で毎月開催されるサイエンスカフェの司会をつとめるなど、科学の普及のために精力的に活動している。

原書のタイトルを直訳すると「覆面科学者」になる。ベントリーによれば、覆面科学者とは、日常生活のなかでちょっとした不運に見舞われたときに(例えば、頭上から鳥の糞が落ちてきたときや、ポケットに入れていたボールペンがインク漏れを起こしたときに)、「今日はツイてない」の一言で片づけることなく、どうしてそうなるのか調べてみる人のことである。ベントリーは読者諸氏に覆面科学者になることを勧めているが、覆面科学者になると、なにか得することがあるのだろうか?もちろんある!

チューインガムの粘着性やミツバチの毒針について調べていけば、髪についたガムをはがす方法やミツバチに刺されたときの対処法が明らかになるだろう。

床にこぼしてしまった赤ワインや腐らせてしまった牛乳はどうすることもできないかもしれないが、食べ物のしみが落ちにくい理由や、腐った牛乳とヨーグルトの違いについて調べていくうちに、いつか役に立ちそうな豆知識をたくさん仕入れることができるだろう。ひどい寝坊やもの忘れに悩んでいる人も、インターネットで少し調べてみれば、それが病的なものであるかどうかを判定することができるだろう。また、多くの人が同じ悩みを抱えていることを知り、その工夫を参考にすることもできるだろう。

「ボールペンのペン先はきれいにしておきなさい」「パソコンのデータはまめにバックアップをとりなさい」「トウガラシを触ったあとには手を洗いなさい」など、細かいルールを押しつけられるのはうっとうしいものだが、その理由を理解できれば、ルールを守ることは苦にならなくなるだろう。

ひょっとすると、雨の日の高速道路で土砂崩れを避けるために急ブレーキをかけている絶体絶命の瞬間にも、「ああ、これがABSの作動による振動というやつか。よし、ブレーキペダルから足を離さないで、しっかりハンドルを切るぞ!」と思えるかもしれない。

しかし、いちばん大切なのは、どんな出来事も自然法則に従って起きているだけであり、自分だけが不当な目にあっているわけではないと思えることではないだろうか。大切な日にかぎって雨に降られるのは、あなたが不幸な星の下に生まれたからではない。ある日突然パソコンが故障し、それを運ぼうとして怪我をするのも、だれかに呪いをかけられたからではないのだ。

不運な出来事に遭遇した場合、その原因を探り、適切な対策を講じておけば、次からはそのかなりの部分を予防することができるだろう。なかには防ぎようのない出来事もあるかもしれない。そんなときにも、なにが起きたかを理解しているだけで、意外なほど落ち着いて受け入れられるものである。

もちろん、すべての自然現象が解明されているわけではないし、だれもがあらゆる科学的説明を理解できるわけでもない。あなたが遭遇する不運な出来事のすべてを完全に理解することはできないだろう。うまい比喩を使った説明を聞いて、そのときはわかったような気がしても、あとで考えてみると腑に落ちない点が出てきて、そのうちすっかり忘れてしまうかもしれない。それでいいのだ。すべてを覚えている必要はない。忘れたら、そのたびに調べればよい(ちなみに訳者はスポーツやゲームのルールがどうしても頭に入らず、気になるたびに調べている)。

大切なのは、理解したいという気持ちである。知らないほうがよかったと思うこともたくさんあるかもしれないが、人間らしく生きようとするなら、知らなくていいことなど一つもないはずだ。インターネットの普及により、調べ物をすることは一昔前とは比べ物にならないほど容易になった。著者はまえがきで「あなたが『なぜ?』という問いかけを取り戻すのをお手伝いしたい」と書いていたが、訳者としては、さらにそのお手伝いができたら幸いだ。

ここで1つ、皆さんにお断りしておかなければならないことがある。実は、私たちを代表して朝から晩までさんざんな目にあってくれた主人公の男性は、原書では、10時35分に携帯電話で上司に遅刻の連絡を入れようとして、たいへんな目にあっていた。電話をかけようとするたびに、近くに停めてあった無人のパトカーのサイレンが鳴ってしまい、駆けつけた警察官から職務質問を受けたのである。原因は、携帯電話とパトカーの無線装置との干渉だった。

原書では、このエピソードに続いて、携帯電話の呼び出しのしくみと電波の干渉について非常に面白い解説があったのだが、日本語版ではこの章の全体を割愛せざるをえなかった。理由は、日本ではイギリスより一世代進んだ携帯電話システムが普及しているため、あまりにも多くの点で本文と訳注で相反する説明をしなければならず、読者諸氏の混乱を招くおそれがあったからである。日本語版では、著者の許可を得てこの章を削除し、その指示を受けて、ストーリーが矛盾なくつながるように前後の章に少し手を入れてある。

最後に、大幅に遅れた翻訳作業を辛抱強く励ましてくださった新潮社の笠井麻衣さんに、心からの謝意を表する。

三枝小夜子
 

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読者の高い知的欲求に充実のラインナップで応える新潮文庫は1914年創刊、来年100年を迎えます。ここでは、新潮文庫の話題作、問題作に収録された巻末解説文などを、選りすぐって転載していきます。新潮文庫のサイトはこちら
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