マンガ版 日本の黒い霧 終戦直後の忘れられた事件を描いたスパイ大活劇『ヤミの乱波』

角野 信彦2014年04月29日 印刷向け表示
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ヤミの乱破(1) (イブニングKCDX)
作者:細野 不二彦
出版社:講談社
発売日:2005-03-30
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昭和20年8月15日に始まる戦後の数年間は、作家にとってロマンチックな時代だったのかもしれない。

終戦間際に大量の機密書類が焼かれることで事実が欠落し、支配者が移行する間隙に権力の空白が生まれる。空白によって創作者の自由度が上がり、生きるために生存本能を極大にした人間たちが縦横無尽に動き、混沌とした雰囲気がストーリーを盛り上げる。

実際、この時代を舞台にしている名作を上げていけば、阿佐田哲也の麻雀放浪記、横溝正史の金田一耕助シリーズ、松本清張の日本の黒い霧シリーズ、仁義無き戦いシリーズなど、枚挙に暇がない。

今回紹介する『ヤミの乱波』も、陸軍のスパイ養成機関だった中野学校出身の帰還兵が活躍する、終戦直後の闇社会を扱ったマンガだ。ただそれだけで、麻雀放浪記を生きる指針にしている僕のような人間は、胸がキュンとして読まずにはいられなくなる。

物語は昭和22年、いきなり坂口安吾の堕落論の引用で始まる。

日本は負け
そして武士道は滅びたが
堕落という真実の母胎によって
始めて人間が誕生したのだ
生きよ堕ちよ
その正当な手順のほかに
真に人間を救い得る
便利な近道がありうるだろうか

坂口安吾『堕落論』より

生き抜くために、戦前の価値観から限界まで堕ち抜くことを肯定したこの評論は、昭和21年4月に発表され、圧倒的に支持された。この引用から物語はいきなりRAAの闇について語り始める。RAAとは Recreation and Amusement Association の略で、直訳すれば「余暇娯楽協会」だが、現在は「特殊慰安施設協会」として知られている、占領軍専用の国営売春施設であった。日本女性の防波堤として、警視庁・内務省・大蔵省などが連携して昭和20年8月26日に設立されている。

このRAAは翌年の3月26日には廃止されているが、実態として占領軍相手の売春施設は存在し続けていた。しかし、日本女性の防波堤にはならなかったようで、戦後の価値観で見ればとんでもない悪の組織として見られがちの特別高等警察が、占領軍の不法行為(婦女暴行や殺人など)を監視して記録をつくっていた。この文書は1973年までアメリカに没収されていた。

こうした、忘れられた事実を丹念に拾いあげながら、その隙間に物語を差し込んでいくことは、1959年生まれの細野不二彦にとっては大変な作業だったのではないだろうか。RAAのこと以外でも、終戦直後のヒロポン(覚醒剤)使用者と中毒者の実数、吉田茂が寺内正毅に呼び出されたときに首相秘書官になるのをどうやって断ったか、連合軍がマッチポンプしていた労働運動を描いた山田風太郎の日記の引用、光クラブの実際の広告の引用など、とにかく細部にリアリティを持たせる努力が壮絶だ。

このような現代では忘れられた歴史の闇に、陸軍中野学校の主人公が入り込み、共産主義者との暗闘をくりひろげる。単なる史実だけでない、マンガならではのケレン、「大きな嘘」がこの共産主義たちに仕込まれている。この共産主義者たちは「赤化戦士」と言う名で登場し、物語を緊迫させ、主人公たちの好敵手となっていく。事実を丁寧に掬い上げて物語にリアリティを持たせる一方で、「大きな嘘」がダイナミックに物語を動かしていく。さすが細野不二彦と思わせる、この匙加減が絶妙だ。

また、読者をニヤリとさせる、ちょいネタも満載だ。主人公がフィクサーである吉田茂に会いに行って手塚治虫の『新宝島』を忘れてくる場面で、それを夢中に読む少年が現在も活躍する自民党の大物政治家だったりする。『新宝島』が発売されたのが昭和22年、ここでも細かい事実をストーリーの中に組み込もうとする作者の執念のようなものが感じられる。

RAAのように、現代人には忘れられてしまった占領時代の歴史的事実に執着して描く動機は、作者の怒りではないだろうか。思想にいい悪いはない。世の中を観察するための、ただの道具に過ぎないにもかかわらず、思想を上位概念として事実を闇に葬っていく人たち全てに対する怒りが感じられる。

その怒りは主人公に仮託され、事実を消し去り、自分の都合の良い歴史を捏造する登場人物たちに向けられる。主人公が「他人に忘れられることでしか存在する意味を与えられない人間がいる」と、スパイの宿命をRAAの娼婦に話しかける場面がある。このマンガは「忘れ去られるべき人間」に語らせた「忘れ去られるべきでない事実」のストーリーということなのかもしれない。

この物語でも重要な役割を担う吉田茂の長男の小説家、吉田健一が昭和32年に書いた短いエッセイのなかに歴史と人間についての面白い文章がある。

戦争が始まったり、終わったりして、その後に歴史の扱い方が前よりよくなったとは思えない。天皇の代りに人民が振り廻されることになっても、振り廻される人民はそれまでの天皇と同じで、歴史を扱う人間がいい加減にでっち上げた観念であることに変りはない。

社会だの、文化だのを持って来ても収拾が付くものではなくて、一体に想像力が欠けている人間が歴史のように、小説以上に精密な想像力が必要なものと取り組むと、なによりもこれを用いて復元しなければならないのが過去の人間であるから、人間抜きの歴史でごまかそうとする。

そして歴史は人間が作るものなのだから、人間抜きの歴史などというものは実際にはあり得ず、ということは、我々が歴史の名で歴史でないものを与えられていたことに他ならない。

吉田健一『歴史の教へ方』より

逆説的であるが、この『ヤミの乱波』はフィクションであるがゆえに、リアルに歴史の中に人間を感じさせる傑作である。昭和の日に細野不二彦が執念で埋めた歴史の隙間、人間の感情を感じ取ってほしい。4巻で完結してしまったのが残念でならない。

ヤミの乱破(2) (イブニングKCDX)
作者:細野 不二彦
出版社:講談社
発売日:2005-12-22
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作者:細野 不二彦
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ヤミの乱破(4) (イブニングKCDX)
作者:細野 不二彦
出版社:講談社
発売日:2014-03-20
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出版社:中央公論新社
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