「上書き保存」で、記憶を編集する ニューロンの科学が示唆するPTSDの治療

青木 薫2014年07月03日 印刷向け表示
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
The New Yorker [US] May 19 2014 (単号)
作者:
出版社:Conde Nast Publications
発売日:2014-05-25

『ニューヨーカー』誌の2014年5月19日号に「パーシャル・リコール(partial recall)」というタイトルの記事が載っていました。ピンと来た人もいるかもしれませんが、これは映画『トータル・リコール』に引っかけているんです。この映画、いろいろ話題になったので、ご覧になった方も多いかもしれませんね。『トータル・リコール』は、人間の記憶をまるごと入れ替えることにより、別人格の人間をつくるという設定の映画でした。


(いきなり余談ですが、私は『ニューヨーカー』のこの記事を読んでから、有名な映画なのに見ていないことに気づき、ちょっと見てみました。オリジナルのシュワルツェネッガー&シャロン・ストーン主演のものは、自分的には、マジっすか、と開いた口がふさがらないくらいに、演技が下手だったり、台詞がベタだったり、まるで出来の悪いアメコミみたいだと感じましたが、リメイクされたコリン・ファレル主演のほうは、すんなりと物語に入れて、ずっと面白く見ることができました。ファレル主演版では、「コロニー」の情景が、『ブレードランナー』や『攻殻機動隊』っぽいのも、雰囲気ありました~~。)

映画では、記憶をすべて書き換え(ただし、後述の「昔取った杵柄」的な記憶はすべて残っていましたが)、人格さえも変えてしまうのに対し、『ニューヨーカー』の「パーシャル・リコール」では、記憶の一部 --もう少し具体的に言えば、トラウマなるような強い恐怖など-- を消去できるかもしれない、という話なのです。

こう言われると、「えっ! 記憶を操作するなんて、そんなことやっていいの?」、「記憶って、個人のアイデンティティーの根幹じゃないの?」、「嫌なことは忘れてしまえばいいというの?」と、つぎつぎと、人間存在そのものに関わるような深い疑問が湧いてきますよね。

こうした深い疑問に対して、パーシャルな(笑)答えを与える前に(どのみち全面的な答えなどないのです)、まず、この記事で大きく取り上げられている研究者をご紹介することから始めましょう。

その人物は、ダニエラ・シラー。ニューヨークのアッパーイーストサイドにある、マウントサイナイ医科大学で、情緒神経科学(affective neuroscience)の研究室を率いています。ストレートのブロンドで、気品のある顔立ちの彼女は、リッチな環境のアッパーイーストサイドの風景にしっくりと馴染みそうです。しかし実際には、彼女はおしゃれでリッチな環境どころか、喧騒のテルアビブの出身なのだそうです。

シラーがニューロンレベルで、人の情緒、とくに恐怖の記憶の研究を志すようになった背景には、お父さんのジークムント・シラーの存在がありました。ジークムントは、ナチのホロコーストのサバイバーなのです。彼は第二次世界大戦の最初の二年間を、当時はポーランド、現在はウクライナに属するホロデンカのゲットーで過ごし、続く二年間は、ドイツ人の手を逃れ、ウクライナ南西部のあちこちにあった掩蔽壕を転々としながら逃げのびました。が、ついに1942年、十五歳のときに、ドイツ人に捕まって強制収容所に送られ、そこでどうにか終戦まで生き延びたという経歴の持ち主だったのです。

ジークムントは、その長い歳月の経験について、誰にもひとことも語らなかったそうです。いえ、ただ単に、語らないというだけではありません。「ヨム・ハショア(ホロコースト記念日)」というイスラエルの重要な記念日でさえ、行事そのものを完全に無視していたというのです。春先に訪れるヨム・ハショアの日には、イスラエルのいたるところでサイレンが鳴り、それとともにはすべての人が動きを止めて --道を行く人は立ち止まり、作業中の人は手を休めて-- 数分間、ホロコーストの犠牲者に黙祷を捧げるのだそうです。これはイスラエルの人々にとって、とてもとても大切なひととき。ところがジークムントは、まるでそのサイレンさえ聞こえないかのように、動きを止めもしなければ、祈りもしなかったそうです。子どもだったダニエラが父親に、「何があったの?」と尋ねても、父親はその質問を完全にスルーしたといいます。

そんなわけで、シラーの家庭内では、父親のホロコースト経験についての会話はまったくなかったわけですが、彼女の心のどこかにはいつも、重苦しい疑問がのしかかっていたのでした。それも無理はありませんよね。お父さんの身に何が起こったんだろう? ホロコーストに関する本や映画などに描かれている、ナチスの残虐行為のうち、お父さんは、どれとどれとどれとどれを経験したのだろうか(ひとつやふたつではないでしょうね)? 映画にもなった小説『ソフィーの選択』に描かれたような選択と地続きの判断を、お父さんは何度も迫られたのだろうか?

いつまでも消えることのない強い恐怖の記憶は、ホロコースト・サバイバーだけのものではありません。レイプ・サバイバー、戦争経験者(アメリカであればアフガニスタンやイラク)など、何らかのPTSDに苦しむ人たちは、アメリカでは人口の五パーセント以上にのぼると言われています。強い恐怖記憶にとらわれるだけでもつらいことですが、そのせいで普通に生活を営むことが難しくなり、人間関係をうまく結べなくなったりもします。そういう人たちの苦しみを目の当たりにする家族や医療従事者は、なんとか手助けをしたい、この苦しみを癒してあげたい、と思わずにはいられないでしょう。

普通、わたしたちの苦しみや悲しみは、時とともに和らいでいきます。「時薬(ときぐすり)」とは、よく言ったものですね。しかし、強い恐怖の経験と結びついた重いPTSDに対しては、有効だと言えるような治療法がいまだにありません。よく用いられるのは行動療法ですが、しかしそれも、効果があるのかないのかはっきりせず、効いているかのように見えて、結局はぶり返すことになったり……。

恐怖の記憶を、消すことはできるのでしょうか?

さてここで、ひとつとても重要な注意点があります。ここでいう「恐怖の記憶(恐怖記憶)を消す」というのは、その恐ろしい「出来事に関する記憶を消す」ことではない、という点です。

記憶というと、わたしたちはたいてい、記述的記憶(陳述記憶、宣言記憶とも)と呼ばれるものを考えます。たとえば、「野うさぎを追いかけて沢を少しのぼったら、小熊をつれた母熊に遭遇し、命からがら逃げたけれど、右腕を肩から食いちぎられてしまった」というように、言葉で語ることができる記憶を、記述的記憶といいます。それに対して、その恐ろしい経験にともなう恐怖記憶というものがあり、たとえば、「街を歩いていて、くまモンの着ぐるみにばったり出くわし、そのとたん、激しい動悸が起こって冷や汗が噴出し、立っていられなくなって崩れ落ち、かがみ込んだまま身動きが取れずにいたら、親切な人が救急車を呼んでくれて病院に担ぎこまれ、鎮静剤を打ってもらい、しばらく休んでどうにか帰宅することができた。もう外に出たくない」といった現象を引き起こすのが、さきほどの記述的記憶と結びついた強い恐怖記憶です。

最新の脳科学により、PTSDの治療に光が見えてきた、といった記事をWeb上で見かけると、この二種類の記憶が、しばしば混同されているように見えるのです。つまり、恐怖記憶を消すだけでなく、「野うさぎを追いかけて沢を…… 」という記述的記憶を、丸ごと消してしまうこと、と誤解されているケースがままあるように思えるのです。

PTSDの治療との関わりで言われている記憶の消去は、恐怖記憶の消去であって、出来事そのものを忘れてしまうことではありません。これはとても重要なポイントなので、今回の「サイエンス通信」を読んでくださったあなたが、何かひとつ記憶に残すとしたら、「記述的記憶と恐怖記憶は別のものだ」というあたりを残していただきたいな、と思います。

さて、ニューロンレベルで、脳の働きについての研究が進んだおかげで、記憶についても基本的なことがいろいろとわかってきました。たとえば記憶のタイプごとに、脳の中でその記憶が貯蔵される場所も違うといったことも、そのひとつです。記述的記憶は、脳の中でも海馬(有名ですよね!)と言われる部位に貯蔵されるのに対し、恐怖記憶は(「恐怖」だけではなく情緒一般ですが)、扁桃核(扁桃体とも)と呼ばれる部位に貯蔵されます。扁桃核は、左右の側頭葉の奥のほう、眼の奥のあたりにあります。

記憶にはそのほかにも、手続き記憶というものがあります。たとえば、自転車の乗り方とか、雑巾の絞り方とか、服のボタンのはめ方とかとか、ピアノのスケールの弾き方とか、いわば「昔とった杵柄」的な記憶がそれです。これは、当然と言うべきか(手をコントロールする領域とか、足をコントロールする領域とかありますからね)、脳のあちこちに分散して貯蔵されるのだそうです。また、記憶の形成や抹消に関与するタンパク質を作るための遺伝子や、逆に作らないようにするための遺伝子なども次々と明らかになってきています。これらの成果から、記憶を助けたり、消去したりするために使える、新世代の薬が作れるかもしれないという段階に入りつつあります。

記憶のメカニズムについては、二十一世紀に入るくらいまで、長きにわたって支配的だったパラダイムがありました。それを大ざっぱに述べれば、「記憶というものは、定着(固定)するまでは不安定だが、いったん定着してしまえば安定し、そこから先は時間が経つとともに、外からの干渉にも反応しにくい強固なものになる」というものでした。

しかし近年、独創的な実験により驚くべき証拠が集まってきたおかげで、記憶に関するそのパラダイムが大きく変わりつつあります。

今日の記憶イメージは、たとえて言うなら、コンピュータで文章を編集するのに似ています。過去の経験を想起するのは、ハードドライブから記憶を呼び出して編集するようなもの。そして多くの場合(そこがあやふやなだというところが鍵なんですが)、編集された記憶は、「名前をつけて保存」されます。実はこの、「名前をつけて保存」になってしまうということが、PTSDの行動療法の難しさにもなっていたのでした。

たとえば、あなたにディスプレイの前に座ってもらい、そのディスプレー上にランダムにさまざまな色の四角形が現れては消えるようにします。そして、青色の四角形が現れた直後にだけ、手首に電気ショックを与えます。そのショックは、怪我をするほどではないけれど、かなり痛く、あなたはすぐに、ショックが来るのは青色の四角形を見た後であることに気づき、青色の四角形が現れると、身をすくめ、心臓の鼓動が速くなったりするわけです。

この恐怖経験を消すために、青色の四角形が出ても、ショックを与えないということを繰り返します。これを「消去訓練」といいます。ショックが来ないという経験を積み重ねることにより、恐怖感を薄めていこうというわけです。

行動療法の場合は、「名前をつけて保存」となります。つまり、過去の恐怖体験とは別の記憶として保存されてしまうのです。恐ろしい出来事を伴わない経験の回数が増えれば、「大丈夫大丈夫、青い四角形がディスプレイに登場しても、ショックは起こらない」という具合に、恐怖をコントロールできることもあります。が、何らかのストレスがある状態では、残念ながら、もともとの恐怖記憶が想起されてしまうこともあるのです……。

ダニエラ・シラーの独創的な発想は、(わたしなりに噛み砕いて言うと)「もしも記憶が経験によって生成されるものなら、編集のあり方もまた、経験によりコントロールできるのではないか?」ということでした。それまでは、記憶に関与するタンパク質の生成を抑えこむような物質を扁桃核に注入するなどして、実験が行われていたのですが(動物実験のみです)、彼女は、そのような薬品によらず、経験だけで、編集された記憶の「上書き保存」が可能になるのではないかと思ったのです。

そこで彼女は、こんな実験をしてみました。

まず、さきほど説明した、青い四角形と電気ショックの、単純なパブロフ型条件付けをやります。そしてその翌日に(記憶の固定に必要だとされる時間を与えるわけです)、消去訓練を行います。つまり、ショックなしに、青い四角形を被験者に見せ続けるのです。

その後、グループを三つに分けます。第一のグループには、一度、青色の四角形を見せます。これは記述的記憶と恐怖記憶の「両方を」リコールすることにほかなりません。ハードドライブから記憶を編集用に呼び出すわけですね。その上で、それから10分以内に、消去訓練を開始するのです。第二のグループは、リコール(呼び出し)から六時間経過後に、消去訓練を開始します。第三のグループは、リコールせず、消去訓練のみを行います。 

その結果、第一のグループのみが、恐怖記憶が消去されたのです。10分以内に消去訓練を開始したことにより、記憶が「上書き保存」され、恐怖記憶が抜け落ちたことをほのめかしています。

実はこの成果は、すでに薬物中毒などに応用されて、一定の成果を上げているようです。その場合もやはり、10分というのが鍵になっています。薬物中毒の場合、恐怖記憶ではなく、強い快楽記憶が呼びさまされてしまいます。そうなるともういてもたってもいられず、仕事の関係者にどれだけ迷惑をかけようと、家庭をボロボロにしようと、借金を重ねようと、薬を手に入れずにはいられなくくなります。でも、快楽記憶が消去されてしまうと、「昔はオレもやんちゃやったよなぁ」という記述的記憶だけですんでしまうわけですね。

シラーの成果が、PTSD治療の臨床に生かされるまでには、まだまだいくつもの壁を乗り越えなければならないことでしょう。また、記憶を操作することにまつわる問題も、どこまでもついてくることでしょう。それでも、PTSDに苦しむ人たちを助けることに、一筋の希望が生まれたとはいえると思うのです。それに、薬を使わずにって……やっぱり、すごくないですか? びっくりです。びっくりではあるけれど、たしかに言われてみれば、できて当然とも思うんですよね。人間って、面白い!

*

さて、今回のテーマと関係のあるものを、書籍、映画、そして漫画のジャンルからを、それぞれひとつずつご紹介したいと思います。

記憶のしくみ 上 (ブルーバックス)
作者:エリック.R・カンデル
出版社:講談社
発売日:2013-11-21
  • Amazon
  • honto
  • e-hon
  • 紀伊國屋書店
  • 丸善&ジュンク堂
  • HonyzClub
記憶のしくみ 下 (ブルーバックス)
作者:エリック.R・カンデル
出版社:講談社
発売日:2013-12-20
  • Amazon
  • honto
  • e-hon
  • 紀伊國屋書店
  • 丸善&ジュンク堂
  • HonyzClub

まず書籍ですが、『ニューヨーカー』の記事には、記憶の研究の歴史的な展開についてもざっくりまとめて紹介されていました。科学は、巨人の肩のたとえどおり、次の世代が少しずつ先を見ていくようなところがありますが、その観点から言うと、エリザベス・ロフタス→エリック・カンデル→カリム・ナダー→ダニエラ・シラーという、ひとつの流れがあると見ることができそうです。とくに、ニューロンレベルでの心の理解ということでは、エリック・カンデルが重要かもしれません。2000年にノーベル生理学・医学賞を受賞したカンデルと、やはりその分野の大物であるラリー・スクワイアの共著の大著が翻訳されています。実は私もまだ読んでませんが、読むぞー!ってことで(^^;) ※仲野徹のレビューはこちら
 

エターナル・サンシャイン [Blu-ray]
監督:ミシェル・ゴンドリー
出版社:ギャガ・コミュニケーションズ
発売日:2012-07-03
  • Amazon

次に映画です。たまたまですが、ダニエラ・シラーが博士号を取得した年に公開された『エターナル・サンシャイン』。ジム・キャリー&ケイト・ウィンスレット主演で、(ホビットの)イライジャ・ウッドも出ています。恋人とけんかして傷ついた女が衝動的に「記憶除去手術」を受けるが……というお話で、やはりと言うべきか(たいていの小説なり映画なりはそうなんですが)情緒記憶ではなく記述的記憶の除去という扱いになっていますが、それでもいろいろ考えさせられます。2004年のアカデミー脚本賞他、様々な賞を受賞しています。チャーリー・カウフマンがプロデューサー&脚本(脚本家三人のうちの一人)をやってます。カウフマンは怪作『マルコヴィッチの穴』の脚本家でもあるんですね。記憶を操作されるときのシュールなシーンなどは、『マルコヴィッチの穴』的かも?
 

ペット リマスター・エディション 1 (BEAM COMIX)
作者:三宅 乱丈
出版社:エンターブレイン
発売日:2009-10-26
  • Amazon
  • honto
  • e-hon
  • 紀伊國屋書店
  • 丸善&ジュンク堂
  • HonyzClub

そして漫画です。記憶とアイデンティティーに深く食い込む漫画なら、これを読め! 鬼才三宅乱丈の『PET』。リマスターエディションを五巻大人買いして、ドゾ!

記事へのコメント コメントする »

会員登録いただくと、記事へのコメントを投稿できます。
Twitter、Facebookにも同時に投稿できます。

※ 2014年3月26日以前にHONZ会員へご登録いただいた方も、パスワード登録などがお済みでない方は会員登録(再登録)をお願いします。

コメントの投稿

コメントの書き込みは、会員登録ログインをされてからご利用ください。

» ユーザー名を途中で変更された方へ
 変更後のユーザー名を反映させたい場合は、再度、ログインをお願いします。

ノンフィクションはこれを読め!  2014 - HONZが選んだ100冊
作者:
出版社:中央公論新社
発売日:2014-10-24
  • Amazon
  • Amazon Kindle
  • honto
  • e-hon
  • 紀伊國屋書店
  • HonyzClub

電子版も発売!『ノンフィクションはこれを読め! 2014』

HONZ会員登録はこちら