鼻孔をくすぐる悲しみ『世界はフラットにもの悲しくて』

2014年7月8日 印刷向け表示
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世界はフラットにもの悲しくて 特派員ノート1992-2014

作者:藤原 章生
出版社:テン・ブックス
発売日:2014-06-28
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洋書の写真集が好きな私は、大型書店を訪れた際には必ず洋書コーナーで様々な写真集を眺める。必ず手に取るのは、ファッション写真と報道写真だ。ファッション写真は人間の美しさを私に教えてくれる。そして報道写真は広い世界に渦巻く人間の業と悲しみを教えてくれる。同じ時代を生きつつ、決して出会う事の無い人々の悲しみや欲望や生のエネルギーを私に突きつける。

そのような写真を目にし、私もいつかは世界へと飛び立ち、様々な国の人々の波の中に埋もれてみたいと思いながらも、夢果たせぬままこの年まで来てしまった。私が夢見つつ果たすことのなかった世界に飛び込んで行くジャーナリストとはどのような人々で、どのような視線を世界に向けているのだろうか。そんな問いが本書を手に取るきっかけになった。

著者の藤原章生は開高健ノンフィクション賞作家にして、毎日新聞の特派員だ。本書は彼が訪れたされた様々な国で見た出来事を綴ったエッセイである。

暴動が始まる直前、にわかに辺りの空気が変わる。空気がプールの水をかくように急に重くなる。その重い空気の中で波のように流れる人の群れが微かにずれる瞬間がある。(中略)その波が一瞬にして変わる光景は、それが自分にとって恐ろしければ恐ろしいほど鮮やかに心にとどまる。

著者が暴動に巻き込まれ袋叩きにされた瞬間の話である。暴動に巻きこまれるという事が自分の人生の何かを変えたのだろうかと藤原章生は回想する。そしてそれを文章にする難しさに苦悩する。「どうしても、あの瞬間が再現できない。その時の映像にいくら近づけても本物にはならない。どこかにウソが入りこむ。いや、言葉そのものがウソなのだ。」確かに映像の力に言葉は及ばない。映像には多くの情報が入り込む。では、言葉は絵を超えられないのだろうか。著者は「言葉はいつまでも絵を追いかけ続ける分、言葉は言葉自身の可能性にまでロマンチックなのだ」と言葉が持つもう一つの力に言及する。

なるほど、著者のエッセイはどこまでもロマンチックであり、そして物悲しい。コロンビアの街、ブエナベントゥーラは左翼ゲリラと右派のゴロツキが銃撃戦を交わすような港町。夜明け前のこの街でギリシャ彫刻のような肉体を持った初老のホームレスが、土砂降りの中で洗濯をしている姿に目を向け、「我々だっていつあんな風になるとも限らない。なるのは簡単だ。それはどんな状況だろうか。でも、そんなに、ひどいことなのかな?」と自問する。

雨で洗濯をする、優美な肉体を持った初老の男にどんな人生があったのであろう。著者の簡素な言葉で、読者である私は、この男の優美な肉体と人生を想像する。そしてその男に宿る悲しみと苦悩が、目の前に深い霧のように立ち込める。

20代の頃、旅先のエルサルバドルで盗難にあい無一文になった著者は、元ゲリラ兵だった美しい女性に助けられ、彼女が間借りしていた家で身を寄せ合うようにして共に過ごす。恋だったのであろう。別れる朝、彼女は著者が抱きしめようとしても、座ったまま泣きじゃくっていたという。

抱きしめあうことなく、別れた彼女を19年後、ジャーナリストになった著者は訪ねる。元ゲリラ兵の彼女が間借りしていた家の女主人は当時よりさらに貧困に陥り、著者がお礼に渡したドル紙幣に手を合わせ「ああ、神よ」と涙ぐんだという。ジャーナリストではなかった当時、貧困や暮らしなどを考えることなく、それを原稿にしようなどという欲もなく、ただ周りの出来事をあるがままに眺めていたからこそ、記憶は輝きを持っていたのではないかと問う著者。

映画のような話だ。ふらりと訪れた街で、たまたま出会い、暮らし、恋に落ちた二人の男女、だが所詮は旅の空の出来事。実ることもなく別れた二人の青春の話は心を打つ。プロローグの言葉のように、「絵を追う言葉の中に入り込んだウソ」の存在に気づきつつも、いや、だからこそ、言葉で綴られるこの物語はロマンチックなのだろう。

本書には様々な国の、様々な男女が登場する。そして彼らは貧困や社会不安の中でたくましく、人間本来のエネルギーに満ち溢れた姿として読者の前に立ち現れる。それは、著者である藤原章生が彼らの生命力にどこでも魅せられていたからに他ならないであろう。

また簡素な文章ではあるが、一抹の悲しさが鼻孔の中を刺激するような感覚が、どのエッセイからも感じられる。それは、誰もが人間の生には、常に悲しみと苦しみが存在し、そこから逃れる事ができないことを本能的に知っているからであろう。報道とはその悲しみを追いづける仕事ではないだろうか。そして仕事を通してそれを深く追求し続けた著者だからこそ、日常の些末な出来事の中にも、鼻孔の奥を刺激するような、甘美な、それでいて憂鬱な悲しみの香りをさり気なく文章に織り交ぜる事ができたのではないか。そんな香りを追体験できる本書はまさに『世界はフラットにもの悲しくて』というタイトル通りの景色がどこまでも広がるエッセイ集だ。

絵はがきにされた少年

作者:藤原 章生
出版社:集英社
発売日:2005-11
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  本書の著者が開高健ノンフィクション賞を受賞した作品。
 

 東 えりかによる本書のレビューはこちら
 

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