『異邦人』文庫解説 by 麻木 久仁子

2014年7月11日 印刷向け表示
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異邦人 世界の辺境を旅する (文春文庫)

作者:上原 善広
出版社:文藝春秋
発売日:2014-07-10
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上原さんは、いつも旅をしているひとなのだ。日本の路地を。世界の路地を。構えたところもなく、ありのままの心で。

なぜ旅をするのか、第一章にこうある。

〈この世の中で、父と母との喧嘩ほど醜いものはない。まだ幼かった私にとって、それ は修羅場であった。〉
〈両親の修羅場は、まさに幼かった私にとって「小さな戦争」であった。私は何もできずに戸惑う、無知で力のない民衆のようなものであった。〉
〈私に刻みこまれた修羅の跡は、世界の修羅によって贖えるのだろうか。幼かった私に、圧倒的な破壊力を誇った父。その父でさえ、体験することのなかった戦争は、私に何かを越えさせてくれるのではないだろうか。〉
〈そう思うと、いてもたってもいられなくなった。〉

何かを越えようとするならば、刻み込まれた修羅の跡は、風に晒さなくてはならないだろう。納戸の奥に放り込んでおくこともできるだろうけれど、そうはせずに、「いてもたってもいられず」晒しに行く。風に晒せば無防備な傷はどこかにぶつけてまた、血を流すかもしれない。そのときは、それをそのまま感じる。この本を読む私の目に映る 上原さんはそんなひとだ。構えていない。両腕をさらりと下ろして、辺境の町に立っている、そんな姿を想像するのだ。

〈路地の出身者が、外国の被差別民や迫害の現場をルポすることなど、所詮は異邦人による威丈高な自慰行為にすぎないのではないか。そう何度か自問したことがある。しかし私はそれでも外国に通った。そのときはこの衝動をどう説明して良いかわからなかったのだが、今になれば路地(同和地区)のような極めて土俗的で日本独特の問題 を俯瞰し、比較するために外国の取材が必要だったと思うのだ。〉

強い光があれば影はその色を濃くする。影の縁取りはよりくっきりとする。形が見える。もっと強いコントラストをたまらなく欲してしまうような感じ、なのだろうか。一読者の私は、上原さんの後ろを追いかけるようにページをめくる。上原さんが様々な出会いのなかで、自分が何者かを「感じて」「考えて」いるのを追いかけながら、いつのまにか私も自分のことを考え始めていた。上原さんの旅の世界にひたりながら私の胸に浮かんできたこと……。少しおつき合いいただきたい。

私は東京の郊外にあるニュータウンで育った。若い夫婦に子供が二、三人、同じような一戸建てに一斉に越してきて、町が出来た。同じくらいの大きさの家に住んでいる一家の収入は、きっと同じくらいなのだろう。子供たちは一斉に似たような習い事を始め、母親たちは似たような趣味を持ち、父親たちは忙しくて、せっかく手に入れた家なのにのんびりも出来ず、留守ばかり。一見とても同質性が高い。けれどよく考えると、それぞれのルーツはほとんど知らない。本当に「同じ」なのかどうかなんて知らない。そんな町の子供だ。

私の父は長崎のひとだったらしい。らしい、というのも、父のふるさとに一度も連れて行ってもらったことがなかったからである。「長崎県佐世保市」とは、戸籍謄本に書いてあるだけのバーチャルな都市だ。そのころすでに父のふるさとには両親つまり私の祖父母はおらず、遠い親戚くらいしかいなかったこともあるだろうが、それにしても父は語らなかった。ふるさとの風景、ともに過ごしたひとびとのこと、何ひとつ、である。だから私は、ひとのことも知らないが、自分のことも知らないのだ。

父と離婚した母は、離婚の時のごたごたで実家とも疎遠になり、たった一人で子供三人を育てた。遠くの親戚より近くの他人、などと言って、ほとんど親戚付き合いをしなくなった。まだ幼い頃には、母方の親戚たちともその後、誰がいつ結婚したとか子供が生まれたとか、法事とか、ほとんど知らせず知らされず、呼ばず呼ばれずとなった。どこまで覚悟して母がそうしたのかは知らないが、絆という名の「しがらみ」をとことん拒否したのであった。

そんな母があるとき、「お墓がほしい。このままだと入るお墓がない」と言い出した。 墓もある意味「しがらみ」であり、地縁血縁のシンボルだろうが、やはりこればかりは 欲しいのかと密かに母の弱気に微笑みつつ、子供たちでお金を出し合い、これまた郊外の新しい霊園にひと区画買った。みなが一斉に買って、一斉に同じ形の墓石を建てる霊園だ。すると母は、墓石に「○○家の墓」とは彫らないで、ただひとこと「絆」と彫った。母曰く、「名字が同じでなくてもいい。血がつながっていなくてもいい。縁あって関わりが出来、人生を共有したと感じるひとなら、そして同じ墓に入りたいと思うひとなら、みんなここに入ればいい。友達でも誰でもいい。あなたにまた彼氏でも出来たら、そのひとも入ればいいよ」ということである。入りたいひとがいなくなれば、お墓の役目はそこでおしまい、である。なかなかすごいことである。土俗的なものや地縁血縁の維持継続ということに自分は力を注がない。ひとがどこから来てどこへ行こうと、こだわらなくてもいいじゃないの。

そんな母にいつのまにか倣って、私も根を下ろさないように下ろさないように、しがらみを避けて避けて、生きている。いまさら「私」という人間がどこから来てどこへ行くのか、こだわろうとは思わない。そう決めている。

ただときどき、「私は居場所が、どこにでもあるような、どこにもないような」妙な気持ちになることがある。この本を読んでいてわき上がってきたのは、そんな気持ちだった。さびしいというのとも少し違う。ただゆらゆらした感じ。「自分」は何者なんだ ろうか……。

この本を読みながら、そんな思いが迫ってきたのだった。

〈私には、日本にいてもどこか異邦人だという感覚がある。だから二〇代の頃、海外はかえって居心地の良い場所だった。それほど海外に出なくなった今も、異邦人だという感覚はいつも抱いていくのだろう。〉

背負うものがまるで違う上原さんの旅が、どうして私の気持ちを動かすのだろう。

それはきっと、上原さんが、「大きな物語」ではなく「小さな物語」から語り始めるからではないだろうか。国家とか歴史とかイデオロギー、社会構造という「大きな物語」に飲み込まれてしまうと、ひとつひとつの人生の機微がどこかへ行ってしまうことがある。上原さんは、どこへ行き、誰と会っても、のどかな村でも紛争地でも、自分というフィルターを研ぎすませて、まず「感じる」のだ。自分は何者なのかを、そこで感じようとするのだ。だから、上原さんと全く違う人生を歩んできた私でも、「感じる」 ことで上原さんの旅の後を追えるような気がしてくるのだ。きっとこの本の読者もみな、いつのまにかそうしているに違いない。大きな物語なんて、一人一人が「感じた」その先に、自ずとみえてくるはずである。

自分にとって「自分」ほどわからない謎はない。これほど知りたい謎もない。だから 多分、上原さんの旅はこれからも続くのだろう。それがまた本になったら、一読者の私も、自分の「ゆらゆら」を確かめるために上原さんの本をまた手に取るだろう。出来るだけ光をやわらかくして影の輪郭を曖昧にしようとするような自分の生き方を、また確かめるのだ。

とても楽しみにしている。
  

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