聖なるパラノイア、神々しく『ナイチンゲール伝』

山田 義久2014年10月24日 印刷向け表示
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ナイチンゲール伝 図説看護覚え書とともに
作者:茨木 保
出版社:医学書院
発売日:2014-02-10
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 子供もよく読む「偉人伝」。その中で常連ともいえるナイチンゲール
白衣の天使」として、戦争で負傷した兵士達を献身的に看護する姿。その尊さを子供にも読み聞かせた親御さんも多いかもしれない。
ナイチンゲールは、その戦争時の看護だけでなく、自身の知識と経験を体系化し、生涯をかけて近代看護制度の礎を作った。
その業績はまさに偉人と呼ぶにふさわしいものだ。

彼女が残した著書は150〜200冊。書簡は現存するだけでも1万2000通。
終生取り憑かれたように仕事をした彼女だが、そこまで彼女を駆り立てたものは何だろうか。
一般的にいわれるように博愛精神?慈悲の心?
率直にいって、それだけで彼女の情熱を説明するのは弱い。

そう。この作品によると、他のずば抜けた業績を残した多くの人同様、彼女の原動力は狂気に近かった。
若かりし頃「神の声」を聞いた彼女は、「何かを成し遂げないといけない!」という強烈な脅迫観念に襲われる。看護師になると決めてからも、周囲の反対や、捨てきれない社交界への想いに苦しめられ、白昼夢抑うつに苦しむ。看護師にならなければ生きている意味がない、として自殺願望まで芽生えてしまう。

目標に対して猛進している際も、彼女の意向に沿わない者には、長年の協力者であっても激しく攻撃した。彼女に振り回され、罵倒されながら死んでいった者もいる。ただ、その者の最後の言葉がなぜか「かわいそうなフローレンス(・ナイチンゲール)…二人の仕事はまだ終わっていないのに…」だったりするのが面白い。

私個人の印象としては、彼女の仕事ぶりはいわゆる”パラノイア”と呼ばれる人達に近い。
本作はそんなナイチンゲールの人格の深淵をえぐり出す傑作だ。

以下、本書にそって、彼女の軌跡をさわりだけ紹介したい。
フローレンス・ナイチンゲールは1820年5月12日、イギリスの上流階級の家庭の次女として生まれた。
小さい頃から考え込むことが多い性格だった。そして、やたら「」に拘りを持つ子供だった。通り行く汽船の汽笛の回数をカウントし、時間に応じて変わる理由を追求するというようなことを子供の頃からしていたらしい。

(出所:第1話 食卓恐怖症)

真面目で、ずば抜けて勉強ができた彼女は、思春期に「完璧主義」に苦しめられる。「いい子であらればならない」という緊張感に縛られた彼女は、やがて失敗を極端に恐れる子供になる。それは普段の食卓にまで及び、「自分のナイフとフォークが変なことするに違いない...」という強迫観念に教われる「食卓恐怖症」になる。常人に理解しがたい潔癖性は彼女が終生背負う業となる。

 (出所:第1話 食卓恐怖症)

そして16歳の冬、彼女は突然「神の声」を聞く。少なくとも彼女自身は、自分が「神に召された」という確信を持った。しかし、この時点では、まだ何をなすべきかわかっていなかった。

(出所:第1話 食卓恐怖症 )

大富豪の父を持ち、上流階級出身の彼女は、恵まれた生活、華やかな社交、欧州旅行と何一つ不自由ない生活を送る。しかし、「神の声」を聞いた以上、「何かを成さなければならない」という強烈な焦燥感が襲いかかる。そんな時、彼女の心を支えたは数学の勉強だった。数学の整然とした規則性や規律が乱れた心を慰めたのだ。

(出所:第3話 舞踏会と農民小屋)

そして彼女は、大凶作に苦しむ農民達に触れたことををきっかけに看護師になることを決める。

(出所:第4話 天職は看護師)

しかし、家族からの大反対にあう。というのも、当時の病院は今では考えられないくらい不衛生な場所であり、看護師は無能でだらしない大酒飲みがする下品な仕事、というイメージだったからだ。

一方、彼女の中でも、当時自分に想いをよせてくれる男性と結婚し、幸せな家庭を築くことに未練がないわけでもなかった。「看護師になること」と「結婚」との板挟みになり、彼女の精神はバランスを崩し、白昼夢抑うつに苦しむことになる。

(出所:第5話 結婚か仕事か)

結局彼女は、その男性からのプロポーズは断ることになるのだが、そのころから看護師になることは彼女の中で脅迫観念に近いものとなる。そして、衰弱し、廃人のようになった彼女はカトリックである以上、自殺も選べなかった。

(出所:第6話 レゾンデートル)

やがて、周囲の反対を押し切り看護学校に進学することになるが、家族との確執は終生続くことになる。

看護師になってからは、理想の看護制度を実現するための孤軍奮闘が始まるが、やはり彼女の名を世界に知らしめたのは、クリミア戦争だ。当時、世界最強を誇っていたイギリス軍であったが、クリミア半島では苦戦していた。というのも、敵はロシア兵だけでなく、コレラ、赤痢、腸チフスなどの疫病とも戦う必要があったからだ。

その野戦病院への看護団の結成と派遣を求められた彼女は、ここでまた「神の声」を聞き、地獄と化した戦場に向かうことになる。

(出所:第7話 ナイチンゲール式病院第1号)

ただし、彼女が胸に秘めていたのは、傷ついた者を助けたいという慈愛の心だけでなかった。この看護団の動向は世界から注目されていた。つまり、ここで成功を収めれば看護師は世間から蔑まれる対象でなくなるはず、という計算があった。

(出所:第8話 地獄の戦場)

(出所:第8話 地獄の戦場 看護団到着時の病院の様子)

絶対に失敗するわけにはいかない。そんな状況の中、彼女は冷徹ともいえる判断力を垣間見せる。
到着した彼女達を待ち受けたのは、軍と医師からの拒絶であった。民間の看護団の助けを借りるなど、軍の面子を潰すことなのだ。
そのことをよく理解し、予想していた彼女が下した判断は「待つ」。例え目の前で苦しむ患者が死んでいこうと「待つ」。軍と医師から助けを求められるまで、ただ「待つ」のだ。
彼女にとっては、彼女がここまで辿り着くために強いられた忍耐に比べたら、そのくらいの我慢など、なんてことはなかったのだ。

 (出所:第8話 地獄の戦場)

結局、病人の数が増えるにつれ、医師達の手がまわらなくなり、彼女達に正式な協力依頼がくる。その後、患者の介護だけでなく、病院全体のロジスティクスまで掌握する豪腕で成功に導く。ただし、看護師との対立や、自身も疫病に倒れたりと決して平坦な道ではなかったことも本書には詳細に描かれている。

我々が知っているナイチンゲール像は、このクリミア戦争において献身的な介護する姿で作られている。


(出所:第11話 ランプを持った淑女 )

しかし作者は、その後の彼女にこそ「本質」があるとして、詳細を描いている。

帰国する頃には、彼女は既に国民的英雄だった。
しかし、彼女は名声に酔うどころか、恐れていた。国民の熱狂をよそにサインにもインタビューに応じず、部屋に引きこもる。彼女はクリミア戦争のPTSD(心的外傷後ストレス障害)に苦しんでいた。

(出所:第12話 クリミアの悪夢)

そして、彼女は死んで行った兵士達のために軍隊を改革することが、彼らへの償いだと確信し、陸軍大臣や関係者に書簡を送り続ける。

(出所:第12話 クリミアの悪夢)

しかし、軍隊の大組織がそんなに簡単に変革するわけもなく、それが彼女を苦しめ続ける。そして、呼吸困難と動悸の発作に苦しみ、衰弱していく。

 (出所:第12話 クリミアの悪夢)

主治医ももうダメだろうということで、彼女は、1857年(37歳)で遺書を書き、自分の死体をクリミアの地に埋葬することを依頼する。

(出所:第14話 小陸軍省)

そして、家族や友人に見守られながら、彼女は安らかに....ではなく、なんと彼女は90歳(!)になるまで、看護制度の改革のため自宅から仕事を続ける。完璧主義を貫く彼女にとって、皮肉にも自分の家という閉鎖された空間は都合がよかったようなのだ。

(出所:第14話 小陸軍省)

50年近いの引きこもり生活とはいえ、彼女の仕事は、王室、学者、官僚等、社会の中枢部を巻き込むものであり、精力的なものだった。一方、彼女の親族であっても、長年の支援者であっても、彼女の意向に従わない者には、容赦なく罵倒を浴びせた。しかし、罵倒された側も彼女を見捨てないところが従属し続けるところが、不思議なところだ。その理由は彼女の魅力にあるのだろうが、その謎は是非本書を読みながら考えてみてほしい。

(出所:第16話 喪失 ボロカスいわれている人は彼女の長年の支援者)

作者は、著者は医者&漫画家であり、そして以前紹介した名作『まんが 医学の歴史』の作者である茨木保さん。茨木さんはあとがきで「ユニークな業績を残した学者には、何らかの障害を持った人が多いが、ナイチンゲールもその一人だったのかもしれない。彼女がどれほどの「生き苦しさ」の中で、それを乗り越えていったかということに、深い尊敬と愛おしさと感じる」と書かれている。茨木さんはご自身の家族関係と照らし合わせて、ナイチンゲールに深い思い入れを持たれており、あとがきで書かれている本作に対するその想いは感動的である。

本作は、まさにナイチンゲールの人格の深淵までを描写しようとした傑作であることは間違いない。これから何かを成し遂げようとしている人、また何かを成し遂げるかもしれない人が近くにいる人、全員に勧めたい一冊だ。
※なお、後半にはナイチンゲールの主著『看護覚え書』が図説されているので、これも一読を勧めたい。組織運営のオペレーション周りにどんなけ気を使える人だったか本当によくわかる。

 

(出所:第18話:和解)

まんが医学の歴史
作者:茨木 保
出版社:医学書院
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 同じ茨木さんの名著。レビューはこちら

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 この2冊は茨木さんが紹介されている参考資料の一部。幼いころから数に拘りを持っていたナイチンゲールは、看護に統計学的アプローチをもたらした業績もある。

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 そして、偉人達の等身大の姿をえぐるという観点でおススメしたいのが、やはり仲野徹さんのこれ。平易な文章に超濃い内容。

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