『解放老人』認知症を前向きに見つめる

2015年3月29日 印刷向け表示
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解放老人 認知症の豊かな体験世界

作者:野村 進
出版社:講談社
発売日:2015-03-11
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「認知症を〝救い〟の視点から見直す」

帯に書かれたこのフレーズに、思わず目が留まった。「認知症」と「救い」という、一見なじまない言葉の組み合わせに惹きつけられたのだ。

舞台は山形県南陽市の精神科病院、佐藤病院の中の「重度認知症治療病棟」と呼ばれる場所。そこには山形県内から集まってきた、重い認知症と判断された50人近いお年寄りが入院している。

著者は以前、著作『救急精神病棟』(講談社文庫)の取材で、当時は「重度痴呆症病棟」という名称だったこの施設を訪れたことがあった。その際にこんな印象を抱いている。

当初予期したものとは、どこかしら違っていた。「どんよりとした、重苦しい、灰色の世界」が身もふたもない従前のイメージだったのだが、そうとばかりは言えない気がしたのである。

ここには、なにか「ほのかな明るさ」がある。それは、白夜の明るさに似ているようだが、決して暗黒の闇夜に存在するものではない。

ひょっとすると、暗夜のどん底で老残に苦しむイメージは、私たちが外部から見た印象だけで一方的に造り上げたものではないか。

世間に広く根付く認知症へのネガティブなイメージに違和感を持った著者は、2010年から結果的に足掛け5年にわたる、この病棟への取材に挑む。その結晶が本書だ。

認知症の症状は本当に人それぞれだが、重度の患者となると激しい行動が多々見られる。

「あんつぁー! はえく、ほらぁー! あんつぁー、なに、なに、なぁにすんだやぁー! はえく、はえく、なぁにすんだやぁー! こんちくしょー! ああ、おっかちゃー! はえくきてけろぉー! ああ、おっかちゃー! おっかちゃー!」

入浴介助を拒む節子さん(仮名)の叫びである。重いアルツハイマー型認知症の節子さんは自力で入浴を済ませられないのだが、補助するスタッフに対していつも大暴れをおこす。70代後半とは思えないほど力強い抵抗なので、2人がかり、時には3人がかりの大騒動になるのだという。

他にも、よだれまみれになるまでタオルをしゃぶったり、急に失禁してその便をさわったり、施設の中の同じルートを延々と歩いたりと、俗に「問題行動」と呼ばれる振る舞いが重度の認知症患者ともなると頻繁に発生する。平時であっても、会話中には脈絡なく話が飛び、話した内容もよく頭から消える。著者はそんな場面の数々を包み隠さず描写し、会話にいたっては方言までふりがな付きで忠実に書きおこす。今まで認知症関係の本を読んだことはなかったが、ノンフィクション特有の生々しさが滲む本書からは、医学書にはここまで書かれないであろう現場の臨場感が伝わってきた。

数々の奇怪な振る舞いには理由などなく、あっても理解できないかのように一見思える。この「理解不能」という印象が認知症のネガティブなイメージを形成し、完治はないにも関わらず治そうとして薬漬けにされたり、逆に諦めた医師や家族などに放置されたりする結果を生んでしまうのだろう。

著者はそこに待ったをかける。「ジイちゃん、バアちゃん」たちのもとへ足繁く通って何度も話を聞き、大量の文献にもあたっていくことで、突飛な行動の裏に隠された心理構造がおぼろげながら見え始めるのだ。

あるジイちゃんの「扉に背を向けて繰り返し両肘を打ちつける」という一見謎な行動は、昔の仕事だったトラック運転の空想からきていた。周囲の人にありもしない盗みの疑いをふっかける「もの盗られ妄想」をおこすのは長らく一家の財布の紐を握ってきたバアちゃんに多かった。

今は乱暴に見えても、認知症になる以前は「人に迷惑をかけない」生き方を頑なに守ってきたという人は多い。人に頼らざるを得ないという状況は自分のポリシーに反しているため、差しのべられた手を跳ね除けてしまうのだ。よく「ボケっとしてる」なんて見られることの多い認知症だが、心の中は非常に繊細なのである。佐藤病院の佐藤忠宏理事長も、このように語っている。

「そうなんですよねぇ。地道に黙々と生きてきた人たちが、こう(重度認知症に)なると、個性がうわぁーっと出てくるんですよねえ」

本書には著者が手探りで考え、心理を分析していった過程が細かく綴られている。認知症の人が持つ心の機敏さには驚かされるだろう。しかしその複雑さを知ることで、理解できないように思われた行動にも背景があることが分かり、ネガティブな印象はほぐれていく。少なくとも、得体の知れない存在として遠ざけてしまうことはなくなるはずだ。

認知症の進行とともに、罹患者の内面から、常識や世間体や煩雑な人間関係といった余分なものが削ぎ落とされ、いわば「地肌」があらわになる。それは、私たちから見れば、ときに目をそむけたくなったりみるに忍びなかったりするものであろうが、その人が秘めていた個性の核心であるにちがいない。

ジイちゃん、バアちゃんたちと著者が打ち解けていく様子は、読んでいて心あたたまると共に参考にもしたいものだ。著者のような愛のあるまなざしをもっと多くの人が持てたなら、認知症の人がより生きやすい世の中になり、従来の後ろ向きなイメージからも「解放」されるのだろう。 

認知症とは何か (岩波新書)

作者:小澤 勲
出版社:岩波書店
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治さなくてよい認知症

作者:上田諭
出版社:日本評論社
発売日:2014-04-28
救急精神病棟 (講談社文庫)

作者:野村 進
出版社:講談社
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