さあコーヒーを飲もういますぐに! コーヒーをめぐる人生讃歌 ― 豊田徹也『珈琲時間』

原 正人2015年05月20日 印刷向け表示
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人はなぜコーヒーを飲むのか? 「コーヒー飲むと仕事がよくできる…気がする」、「頭がすっきりする…気がする」とは『よつばと!』のとーちゃんの弁である。

実際、17世紀半ばにヨーロッパに定着した頃から、コーヒーは覚醒の飲み物だった。酒の酔いをさまし、性欲を抑制し、万病に効くと考えられた。一方で、コーヒーハウスを通じて、活発な議論・交渉の場を提供し、人々の文化経済活動を促した。清教徒的イデオロギーの確立を背景に、コーヒーが、アルコールに代わる飲み物として、とりわけイギリス、オランダ、フランスを始めとする西欧で称揚されていった様子は、例えば、ヴォルフガング・シヴェルブシュの『楽園・味覚・理性―嗜好品の歴史』(福本義憲訳、法政大学出版局)に詳しい。

だが、コーヒーの効能はそれだけにはとどまらない。そのことを教えてくれるのが、豊田徹也のマンガ『珈琲時間』である。

珈琲時間 (アフタヌーンKC)
作者:豊田 徹也
出版社:講談社
発売日:2009-12-22
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『珈琲時間』は、12ページの短編が17作品収められた短編集である。どの作品にもコーヒーが登場するか、少なくとも言及されている。登場人物たちは、カフェで、自宅で、浜辺で、何なら取調室で、コーヒーカップや紙コップを傾ける。コーヒーが意味ありげに取り上げられている場合もあれば、ただの小道具に過ぎない場合もある。

とりたてて短編同士に緊密なつながりがあるわけでもない。もっとも複数の短編にまたがって登場する人物もいる。アニトニオ・モレッリという映画監督と夏美というチェリスト、それから山崎という探偵である。山崎は豊田徹也の前作『アンダーカレント』にも登場するファンにとってはおなじみのキャラクターだ。一方、モレッリと夏美は、本作第1話、第9話、第17話に登場し、一見乱雑に散らばった短編群を、ゆるやかにまとめる役割を演じている。

このアントニオ・モレッリというキャラクターが特に魅力的だ。第1話では、路上演奏をしていた夏美が演奏を早々に切り上げ、カフェ・ミジンコに入って、コーヒーを注文する。窓際の席に陣取った彼女がコーヒーをすすると、隣から見知らぬ男が話しかける。「うまいか?」 それがアントニオ・モレッリだった。彼は悪びれることなく次から次へとそれらしい嘘をつき、まんまと夏美にエスプレッソ5杯とミルフィーユ2つをおごらせてしまう。

図版『珈琲時間』P6

彼のように能天気で人騒がせだが人間くさくて憎めない、そんな人々が豊田作品にはしばしば登場する。

一方で、心に深い傷を負った人々も登場する。第2話に登場するウエノ少年は、幼い頃、母親が彼をファミレスに置き去りにしたまま、蒸発してしまった。親しくしていたゲームソフト屋のお姉さんがある日忽然と姿を消すと、不安に駆られ、大人を装い、探偵の山崎を喫茶店に呼び出す。

置き去りにすること、されること、それは豊田作品にしばしば登場するモチーフである。人々が抱える置き去りにすることへの罪悪感と置き去りにされたトラウマが、『アンダーカレント』、『珈琲時間』、『ゴーグル』といった作品のそこかしこに描かれている。

描きこまれた実在感のある絵の間にふいに差し込まれる時間が静止してしまったかのような風景。おちゃらけた会話の中にふと顔を出す実存的な不安。後姿を見送ったっきり、角を曲がってしまったら、この人物はそのままいなくなってしまうんじゃないか……。この4月末に出たばかりの『蟲師 外譚集』に収められた一篇「影踏み」には、そんな豊田徹也のエッセンスが凝縮されていた。

蟲師 外譚集 (アフタヌーンKC)
作者:芦奈野 ひとし
出版社:講談社
発売日:2015-04-23
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孤独な人々は、しかし、何かと口実を設け、他人と会い、コーヒーをともにする。偶然隣り合わせた喫茶店で、依頼人と探偵として、かつては親友、今は敵として銃口を互いにつきつけながら、あるいは離婚届を挟んで向かい合いながら……。そう、コーヒーはいつも人とともにあるのだ。病めるときも健やかなるときも。

二人乗りの自転車をひいひいこぐ夏美のことなどおかまいなしに、荷台に座ったアントニオ・モレッリが朗々と語る。

“人生に必要なのは何か?/生きる糧となるものは?/酒か? 恋愛か? 金か?/それらは強すぎる/私は一杯のコーヒーだと思う”

“一杯のコーヒーと/口ずさむ歌/それが/生きる慰めとなるのだ”
(『珈琲時間』P205)

人生には人と会うことが、歌を口ずさむことが、そしてコーヒーを飲むことが必要なのだ。「さあコーヒーを飲もういますぐに!」、「なぜなら人生はあっという間に過ぎ去ってしまうからだ!」

図版『珈琲時間』P206

 

楽園・味覚・理性―嗜好品の歴史
作者:ヴォルフガング シヴェルブシュ 翻訳:福本 義憲
出版社:法政大学出版局
発売日:1988-02
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珈琲時間 (アフタヌーンKC)
作者:豊田 徹也
出版社:講談社
発売日:2009-12-22
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