『保存修復の技法と思想 古代芸術・ルネサンス絵画から現代アートまで』

出口 治明2015年07月25日 印刷向け表示
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保存修復の技法と思想: 古代芸術・ルネサンス絵画から現代アートまで
作者:田口 かおり
出版社:平凡社
発売日:2015-04-10
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ウフィツィで修復後の「ヴィーナスの誕生」に再会した時、以前とは異なり余りにも画面が明るくて軽い眩暈のような違和感を覚えたことがある。再建なった薬師寺の西塔を観た時もそうだった。それ以来、文化財の修復とは何だろうとずっと考えてきたが、漸く納得のいく言説に出会えた。それがこの素晴しい本である。

本書は、介入(修復)の4大原則、「可逆性、判別可能性、適合性、最小限の介入(著者は、もう1つ、ドキュメンテーションを加えるべきと主張するが)」を横軸に、近代修復学のパイオニア、チェーザレ・ブランディの修復理論を縦軸にして、古代芸術・ルネサンス絵画から現代アートに至る文化財の修復に係る基本的な諸問題を論じたものである。「脳裏をよぎるのは、いつもあるべき『本当の姿』」・・・・・

第一章は、洗浄の哲学―可逆性。ナショナル・ギャラリー(ロンドン)で大々的に始まった現代の洗浄、どこまで洗浄するのか、修復中の東塔を創立時の姿まで戻すのか。これは、経年価値をどう評価するかという問題でもある。もともと、「油性皮膜は、時の経過のなかで徐々に変色し、古色層へと転じる性質をもつ。画家自身がある種の『仕掛け』として顔料の経年変化とそれに起因する被膜の発生を積極的に利用した画面づくりを行っていた」のだ。

著者は1972年に開催されたフィレンツェの修復絵画展に披露された「マドンナ・ピカソ」を例にあげ、この問題を深堀していく。バルディーニに言わせれば、作品は3人の行為者、作者、時間、介入者と接する。修復行為の使命は「タナトス(死)への進行を止め、ビオス(生)の状態を保持すること、ただし、作品のエロス(美徳)を損なわないこと」である。ブランディは修復介入を「美的価値と歴史的価値の統一体へと作品を回復させること」と定義した。

第二章は、補彩の技法―判別可能性。近代に至る「補彩介入の歴史には、常に『偽証」『偽り』の語が亡霊のようにつきまとってきた」のである。ブランディは、偽造を、複製・模造・偽造(贋作)に分類して考察を試みる。その区分の基準は意図である。そして「復元的修復ではなく保存的修復」を是とした。要するに、東塔は現在の姿のまま保存すべきであって創立時の(西塔のような)極彩色の姿まで戻してはならないのである。

第三章は、蘇る芸術の生を求めて―適合性。この問題は、補彩などで用いる顔料やメディウム(媒剤)との適合性と裏打ちや支持体移動で用いる新素材との適合性の問題に分けられる。額縁をどうするか、あるいはヴァンダリズム(暴力)を受けた絵画の修復と再展示の問題にまで議論は発展していく。

第四章は、修復という「嘘/ファンタジー」―最小限の介入。最小限の介入の概念はアドルフ・ディドロンが示したものである。「修復の役割とは、過去から未来まで多種多様なかたちであらわれる鑑賞者に、より広い『未決性』の領域をあえて残すことなのではないだろうか」、なるほど!と、腑に落ちた。メンテナンスも広い意味での介入であり、パブリック・アートをいかに救出するかという興味深いテーマも論じられる。

第五章は、欠落と証言のアーカイヴ―保存修復としてのドキュメンテーション。アレッサンドロ・コンティによれば、ドキュメンテーションの目的は「選択的にならざるをえない一連の作業において、失われてしまうことになるもの一切にかんする記憶をとどめること」。かくされた技からひらかれた技へ、例えば、使用薬剤のレシピは正確な情報を残す必要があるのだ。

第六章は、結びである。保存修復学再考―「修復は、一瞬の閃光ではない」。改めてブランディの「修復の理論」のアクチュアリティと応用可能性が述べられる。ブランディは「これまで知り合った人の中で、もっとも疲れを知らぬ旅人であり、もっとも独創的で、目にしたものに対し、誰よりも深く共感する人物」であった。アテネ憲章(1931)以降の国際的な修復理念の推移の中にもブランディの影響力を確認することができる。「修復は作品に偽の光輪を与える作業ではない。失われたオリジナルは永遠に戻ることはない。ただし、破片を繋ぎ、イメージを、そして残存する物質を存続させ、そこに『意味』を戻すことができる」と、研究者であるが修復士でもある著者は述べる。

本書を読んだ後、美術館を訪ねれば感興がいや増すだろう。博士論文を加筆・修正したものだというが、巻末の用語集や資料なども充実しており、美術愛好家にとっては堪らない本年屈指の1冊であることに間違いはあるまい。
 

出口 治明
ライフネット生命保険 CEO兼代表取締役会長。詳しくはこちら

*なお、出口会長の書評には古典や小説なども含まれる場合があります。稀代の読書家がお読みになってる本を知るだけでも価値があると判断しました。   
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