『慟哭の谷――北海道三毛別・史上最悪のヒグマ襲撃事件』惨劇から100年

塩田 春香2015年08月10日 印刷向け表示
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慟哭の谷 北海道三毛別・史上最悪のヒグマ襲撃事件 (文春文庫)
作者:木村 盛武
出版社:文藝春秋
発売日:2015-04-10
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 獣害史上最悪として知られる「北海道三毛別羆事件」。死者8人を出したこの惨劇が起きたのは、大正4(1915)年。時は第一次世界大戦下、この地に入植していた人々を恐怖のどん底にたたき落したのは、体重300キロをゆうに超す巨大な人喰い羆であった。

本書は営林署に勤務していた著者が、事件後46年目に当地区の担当になったことをきっかけに、生存者や遺族、討伐隊に参加した人たちから入念な聞き取り調査を行った記録である。本書の内容は、吉村昭によって『熊嵐』として小説化もされている。

12月――野山一面が雪に覆われ、ヒグマは森で冬の眠りについている……はずだった。最初の犠牲者が出たのは、開拓部落の太田家。寄宿していた男が家に戻ると、男の子が座ったまま眠っている。呼びかけても返事がないので肩を揺すったとき、男の子は喉の一部を鋭くえぐられ、こと切れているのに気がついた。一緒に留守番していたはずの、この家の妻もいない。現場にはおびただしい血が流れ、窓枠には頭髪が束になって絡みついていた。翌日、山中で捜索隊が見つけたのは、膝下と頭蓋骨だけになった妻の遺体であった。

しかし、悲劇は始まりにすぎなかった。その晩、太田家で行われた通夜。参列者に清酒がふるまわれていたとき――

ドドーンという物音とともに遺体を安置した寝間の壁が打ち破られ、黒い大きな塊が立ちはだかった。居合わせた誰もが、無惨な死を遂げた二人の亡霊が出た、と直感した。
たちまちランプが消え、棺桶はひっくり返され、マユと幹雄の遺体が散らばり、異様なまでに生臭い息づかいがあたり一面をおおった。
「熊だ!」

本書には、ヒグマへの理解を助ける、さまざまな習性が紹介されている。クマはいちど自分が手に入れた「獲物」に、異様なまでに執着する動物なのだ。ヒグマにとっては、妻の遺体を人間に「横取りされた」。だから「取り返しに来た」。

1970年に福岡大ワンゲル部3人が亡くなった日高山系でのヒグマ事故も、ヒグマが手をつけた食糧入りのリュックを取り返したことが、その後の執拗な襲撃の誘い水になったと言われている。このヒグマは体長150㎝程度という記録もある、小柄な個体であった。それでも、大学生の若者が敵わないのだ。三毛別を震撼させた巨大ヒグマの恐怖たるや、はかりしれないものがある。

太田家を襲った「魔獣」は、今度は川下の明景家に現れる。ここでは臨月の妊婦と胎児を含む5人(このとき受けた傷の後遺症で亡くなった子どもを含めると6人)が、命を落とした。ヒグマが家になだれ込んで人々を襲う1時間あまりの記述は生生しすぎて、読んでいて気分が悪くなりかけた。

じつは、妊婦が食害される場面は『熊嵐』にも出てくるが、本書の描写よりもぐっと控えられたものになっているのだ。小説であればより扇情的に書きたてたくなりそうな気もするが、実在する亡くなった人やその遺族の尊厳を重んじて、吉村氏はあえて残虐すぎる現実を小説から省いたのではないかと想像してしまう。

実際、著者がこのとき亡くなった女性の娘さんを取材に行ったとき、怒鳴らんばかりに追い出されたそうだ。しかし後に協力してもらえたのは、歴史に埋もれかけた事件の真相究明と記録として残すことの大切さを酌んでもらえた証なのだろう。この経緯は、関係者の心にも深い爪跡を残していたことを物語る。

本書には、先出の福岡大生や写真家の星野道夫さんが襲われた事故などもまとめられている。なかでも、著者自身が北千島で命拾いをした出来事は、実体験ならではの衝撃がある。昭和13(1938)年、水産学校の実習生だった著者と友人がサケの遡上を追っていたときのことだ。

まったく無風なのに、そばのアシ原が大きくゆらぎました。のちにわかったことですが、これは私たち二人の接近を察知したヒグマが、食害中の漁夫の体から離れ、アシの茂みにをかわした瞬間でした。
まず私がその場に踏み込むと、アシが一面に踏み倒され、得体の知れないものがはずれに横たわっていました。それは見るも無残に変わり果てた人間で(中略)
私たち二人は、ヒグマにとって最も大切な獲物のかたわらに数分間もつっ立っていたのです。さらにヒグマが潜んでいたアシ原には遺体に向かって弧が描かれ、たくさんの肢跡がついていたといいます。ヒグマは、虎視眈々と私たちを襲う機会をうかがっていたわけです。

著者にとってはこの体験が、ヒグマを強く意識するきっかけになったそうだ。そしてじつは私も、たいへん恥ずかしい話なのだが、サケの遡上を見に行ってあやうくヒグマに遭遇しかけた経験がある。あのとき橋の上から知り合いが呼び戻してくれなかったら――今思い出しても、ぞっとする。

しかしもし攻撃されていたとしても、十分な対策をとらずにうっかり彼らのテリトリーに踏み込んで驚かせてしまった私の不注意で、ヒグマに責任はない。彼らは普通に、自然の中で生きているだけなのだ。下手をすればヒグマを射殺の憂き目に合わせてしまったかもしれない、とてつもなく苦い経験だった。

ヒグマは、臆病な生き物である。肉食獣というイメージが強いが、栄養源の多くはドングリや葉っぱなどの植物に頼っている。三毛別事件のような例外はあるものの、本来は見境なく人を襲う凶暴な動物ではない。しかしひとたび接し方を誤ると、人が「魔獣」に育ててしまう。観光客が与えた餌や放置したごみで人馴れしてしまったヒグマが、市街地に出て射殺されるという痛ましいことも起きている。深く考えずに与えた餌が、ヒグマを殺してしまうのだ。

互いのために大切なのは、無用な接触を事前に避けることと、生態を知ること。三毛別事件から100年目にあたる今年、単行本として読み継がれてきた本書は編みなおされて文庫化された。

「より多くの読者の方にヒグマの生態を正しく理解していただき、ヒグマと人間とのよりよい形での共存を目指す一助になれば」という著者の願いが、本書には込められている。 

 

羆嵐 (新潮文庫)
作者:吉村 昭
出版社:新潮社
発売日:1982-11-29
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(3)知床のほ乳類 (しれとこライブラリー)
作者:
出版社:北海道新聞社
発売日:2001-04
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 ヒグマの生態を知るのに最適な1冊。 研究者によって書かれたヒグマへの思いが伝わる文章も、写真も、素晴らしい。 

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