『アメリカを変えた夏 1927年』 訳者あとがき by 伊藤 真

白水社2015年10月29日 印刷向け表示
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アメリカを変えた夏 1927年
作者:ビル ブライソン 翻訳:伊藤 真
出版社:白水社
発売日:2015-10-23
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本書の訳稿の校正作業に入っていた2015年7月23日、日本の油井亀美也宇宙飛行士が米ロの同僚二人とロシアのソユーズ宇宙船に乗って宇宙へ旅立った。そして打ち上げからわずか5時間45分ばかりののち、地球の上空約400キロの宇宙空間の軌道上を秒速8キロで回る国際宇宙ステーション(ISS)とドッキング、約5カ月に及ぶ予定の宇宙長期滞在ミッションを開始した。

今から88年前の1927年5月21日、本書の主人公の一人であるチャールズ・リンドバーグがニューヨークからパリへ、約1600キロの空路を艱難辛苦の果てに33時間半もかけて飛んだことを思うと、隔世の感がある。しかもリンドバーグの前には、ニューヨーク=パリ間の大西洋横断無着陸飛行の一番乗りをめざして、複数の当時一流の飛行家たちが事故や遭難で死傷している。リンドバーグの後に続いたライバルたちも、40数時間をかけてようやく大西洋を渡り切り、しかも欧州大陸の目的地から遠く離れた地点に緊急着陸同然の状態でたどり着いたのだった。

それが今日、ISSまでは無理としても、ニューヨークまでなら日本からでも15時間もあれば、安全な機体で機内食やビデオなどを楽しみ、多少なりとも座席をリクライニングさせて仮眠をとっているうちに、数百人もの旅客たちと一緒に当たり前のように着いてしまう。リンドバーグの時代から、人類はずいぶんと遠くまで来たものだと思う。

しかし考えてみれば、そのように飛行機で国境を越え、普段は自動車や列車で通勤、通学、旅行にかけ、家ではテレビ、休日ならたまには映画......といった今日の私たちのライフスタイルは、もとをたどればその多くがリンドバーグの時代のアメリカで生まれ、または大きく花開いた技術や文化に負っている。

大衆車、鉄道網、トーキー映画、アメリカを象徴するスポーツの花形の一つとしての野球の大リーグ、芸能ニュースが得意の大衆タブロイド紙、ラジオとテレビ。本書に登場するそんな多様な文化的・社会的現象は、いずれも広い意味では1920年代の産物だ。

悲惨極まりない第二次世界大戦や、9.11や3.11などを経験してきた私たち現代人も、1920年代を原点として始まった時代の流れの延長線上に暮らしているとも言えるだろう。そんな当たり前かもしれないが、私たちが忘れがちな現実に本書はあらためて気づかせてくれる。その点では本書は遠い昔の歴史物語ではなく、私たちが自らの暮らしと時代を振り返るきっかけにもなるだろう。

本書にはリンドバーグをはじめとする当時の名だたる飛行家たち、野球のベーブ・ルース、自動車王ヘンリー・フォード、シカゴの闇世界の帝王アル・カポネ、ボクシングを人気興行に変えたヘビー級チャンピオンのジャック・デンプシー、株価大暴落と世界大恐慌の直前のアメリカの未曾有の繁栄をリードした(というより、著者によれば何もしなかったことでかえって邪魔立てせずになるに任せた)クーリッジ大統領、無声映画の最後を飾った銀幕のアイドル女優クララ・ボウなどが次々と登場する。

アメリカの、そしてやがては世界の社会に深く、長期的な影響を与えた綺羅星のごとき面々だ(アル・カポネを綺羅星になぞらえるのは問題があるが)。アメリカが世界に冠たる超大国へと変貌を遂げた「ジャズの時代」「狂騒の20年代」が、時代の申し子たちの多彩なエピソードを丹念に拾いながら描き出されている。

しかも時代の最大のターニングポイントとなったのが1927年の5月から9月、わずか半年足らずの「ひと夏」だった、とするのが本書のミソだ。大きな時代のうねりを、初夏から秋の声が聞こえ始めるころまでの「ひと夏」の物語にしてみせたところに著者の腕前が感じられるだろう(本書の原題は One Summer: America 1927)。

著者ビル・ブライソンは1951年、アメリカのアイオワ州デモインの生まれ。1970年代にイギリスに旅行したのがきっかけで移住し、結婚。主にジャーナリストとして活動したのち、1995年に『ビル・ブライソンのイギリス見て歩き』で人気作家の仲間入りを果たした。

これは20年あまりのイギリス滞在を経てアメリカへ帰国する前に、改めて「第二の母国」イギリスを(まさに)見て歩いた旅行記だ(ブライソンはのちにイギリスに戻り、現在に至る)。持ち前のユーモア・センスあふれる筆致でイギリスを温かい目で、しかもときには(というよりしばしば)チクリと皮肉りながら語る、痛快かつ心温まる一冊だ。

そんなブライソンの持ち味は、その後の数々のヒット作にも受け継がれているように思う。英語の起源や言語としての特徴や魅力に迫った『英語のすべて』、一時帰国してみて目にした「異国」のような母国アメリカの旅行記(『私もここでは異邦人』I'm a Stranger Here Myself)、そして数々の賞に輝いて日本でも話題になった科学の世界への知的冒険『人類が知っていることすべての短い歴史』。いずれもそれぞれの土地(そして地球上)で暮らす人々や、過去に暮らした人々が残してきた足跡をあくなき知的好奇心で追いかけ、軽妙なハイテンポの語り口で語る。

「見て歩き」方式の旅行記を得意とするビル・ブライソンのもう一つの特徴は、大方の人なら見逃すか、注意を向けずにやり過ごしてしまうようなディテールへのこだわりだと言えるだろう。それは旅の先々での「よくそんなところに目をつけたな」と驚嘆するしかない観察眼ばかりでなく、著者のジャーナリストならではの調査・取材力にも見て取れる。

たとえばシェイクスピアの実像に迫ろうとした『シェイクスピアについて僕らが知りえたすべてのこと』では、古文書にわずかに残る「直筆の署名」といわれるものや、シェイクスピアという苗字の綴り方、信憑性が高いといわれる三点の肖像画の細部などにこだわりながら、その一生について「僕らが知りえた」ことがいかにわずかであるかを語る。なんとも皮肉かつ痛快な伝記(といってよいものか)だ。そんな著者のディテールへのこだわりは本書でも健在だ。

本書ではリンドバーグの飛行とその後の全米凱旋ツアーの様子などはもちろん、主婦ルース・スナイダーと愛人ジャッド・グレイによる殺人事件や、アナーキストとされて強盗殺人の罪で処刑されたサッコとヴァンゼッティの一件などが、当時の膨大な新聞報道の丁寧な調査を手がかりに描かれている。中には紙面の下方のほんの小さな飛行機事故の記事までも見逃さずに引用されている。一見ゴシップに近いような愉快な(ときには不愉快な)エピソードの数々を、吹き出したり眉をひそめたりしながら読み進めるうちに、「細部にこそ真実が宿る」ことにあらためて気づかされるように思う。

最後に本書を訳しながら感じたことをもう一つだけ指摘しておくと、本書の筆致がわずかながらトーンを抑えた調子になっているのではないか、ということだ。読む側の感覚的な問題かもしれないが、はじけるようなウィットと知的アクロバットが各ページに躍るというよりは、冷徹な鋭い批評眼に導かれて展開しているように感じる。底抜けの楽天主義と、差別意識や欲得にまみれた独善主義と、誰もが夢や悪徳の魔力にかかってしまったようなあのアメリカの時代を、ひとつの悲喜劇として描き出そうとしている気がする。

しかしだからといってブライソン作品の大きな魅力である、一人ひとりの人間に対する温かいまなざしが失われているわけではない。長くイギリスに暮らし、遠く離れてしまった故郷の土地と人々と、そのアメリカが良くも悪くももっともぴかぴかに輝いていた時代への、多様にあやなす著者の思いが感じられるのではないだろうか。

本書が書店に並ぶころ、油井宇宙飛行士はまだ約1時間半に一周の猛スピードで地球上空の宇宙空間を巡っておられるはずである。年末に予定される地上への帰還は、ISSを離れてからわずか3時間半の「旅」だ。88年前に悪天候を突いて早朝にニューヨークを飛び立ったリンドバーグなら、まだ大西洋上へと針路を切るにはほど遠く、北米大陸の東海岸沿いを必死に北上していたはずである。

2015年9月 伊藤 真

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