『典獄と934人のメロス』横浜刑務所を襲った激震と猛火、そして囚人たちが解放された

内藤 順2015年12月21日 印刷向け表示
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典獄と934人のメロス
作者:坂本 敏夫
出版社:講談社
発売日:2015-12-03
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1923年、近代化へ邁進する日本を直撃した関東大震災。帝都・東京を中心に関東一円へ大きな被害をもたらし、死者・行方不明者は10万人強にも及んだ。このような自然災害の理不尽さは、時や場所を選ばぬことにある。

被害は平穏に暮らしていたはずの一般市民のみならず、囚人たちを収容する刑務所にも襲いかかった。なかでも壊滅的なダメージを受けたのが、震源地にほど近かった横浜刑務所である。強固な石造りの門柱は倒れ、鉄製の扉が折れ曲がり、左右に延びる外塀は姿を消し、一般人と囚人を隔てていた全ての壁が無くなってしまった。

今日残される多くの記録には、「横浜刑務所の囚人が解放され、強盗、強姦、殺人など悪の限りをつくし、横浜のみならず、帝都・東京の治安も悪化させた」と残されているそうだ。囚人たちが震災のどさくさに紛れて塀の外へ飛び出したのなら、さぞや阿鼻叫喚の地獄絵図であったと考えるのが普通であるだろう。しかし、実態は大きく異なっていたのだ。

100年近くも前に起きた震災の時、横浜刑務所では何が起こっていたのか? 本書は史実に隠された真実を、気の遠くなるような時間をかけて掘り起こした、知られざる刑務所の物語である。

当時の監獄法(現在は刑事収容施設法)には、「解放」という規定があった。天災事変に際し囚人の避難も他所への護送も不可能であれば、24時間に限って囚人を解放することができるというものである。そして、その決定の全ては各刑務所の典獄(刑務所の長)の手に委ねられていた。時の横浜刑務所の典獄は、椎名通蔵という人物。

「刑の目的は応報でなく、教育による犯罪者の更生にある」と考え、囚人たちからも絶大な信頼を得ていた若き典獄は、現実を直視し囚人に対して解放を伝える。

監獄法第22条の規定により、本日午後6時30分諸君を解放する。解放とは24時間に限り無条件で釈放するということだ。

柿色の囚衣が目立たなくなる午後6時半頃、934人の囚人たちが一斉に解放された。戻ることを約束された時間までは、24時間。その中の一人に、福田達也という人物がいた。彼は無数の遺体を掻き分け、脱獄囚に間違えられるという足止めをくらいながらも、40キロ近く離れた実家へ辿り着く。

翌朝、実家周辺の惨状を目の当たりにした福田達也は、隣家の補修や人命救助を優先させたいというジレンマに苛まされた。とはいえ典獄の信頼にも応えたい達也は、妹のサキを刑務所へと向かわせる。兄の身代わりとなって、午後6時半までに手紙を届けよ、と。妹のサキは火災と余震が襲い、治安騒乱の悪路40キロを駆け抜けた。

彼女を走らせたのは、ただ愛する家族への強い思いである。典獄の信頼に応えたいという兄の思い、その兄の名誉を守りたいという妹の思い。そして典獄・椎名通蔵もまた、家族の人であった。彼が大切にしていた言葉に、以下のものがある。

監獄は一代家族なり、典獄は囚人の父なり、典獄は看守夫婦の父なり

塀がなくなった刑務所で頼りになるのは心である。囚人たちに不安を抱かせないことが、逃走の防止と平穏な収容を維持する唯一の手段であるーーそんな典獄の人道的な方針は功を奏し、ほとんどの囚人が期日までに刑務所へ戻ってきたという。

だが、その家族的な愛が行き届く範囲は限定的なものであった。巷には様々な流言蜚語が広がり、市民の情緒も不安定極まりない。あまりにも対照的な囚人の秩序と、市井の人々の混沌。そのコントラストは、救援物資の荷役活動でもはっきりと浮かび上がった。精力的に構外活動に励み喝采を浴びる囚人たちをよそに、人夫たちは連携が取れずに乱闘を始めてしまう。そこに空腹と不安でいらつく市民たちも加勢するのだ。

激震と猛火で大量の無惨な死に直面した人々が異常な心理状態にあった震災当時、都市部では朝鮮人に対する日頃の差別感情と蔑視の後ろ暗さが憎悪と恐怖に変わり、根拠のない噂が凄まじい勢いで広まっていたのだ。そして、流言蜚語の恐怖が市民を朝鮮人狩りへ走らせる。

やがてその流言蜚語の波は、刑務所の内部にも入り込んできた。典獄を快く思わなかった司法省の役人たちが乗り込み、職員や囚人たちに、あることないことを吹き込んでいく。一時的な動揺こそ見せるものの、典獄の強力なリーダーシップのもと持ちこたえる囚人たち。

しかし、囚人たちの秩序あふれる善行が後世への記録に残されることは一切なかった。一般人の流言蜚語がもたらした外交上の問題、その後始末をするためには囚人に汚名を被せるしかないという政治的判断が下されてしまうのだ。天災と国家と民衆と囚人。本当に恐ろしいのが何なのか、是非その目で確かめていただきたい。

著者は、生き長らえていた当事者や関係者の子孫たちの細かな話を拾い上げ、当時の情景を鮮やかに描き出した。そこからは、囚人たちの名誉を回復させたいという思いだけではなく、刑罰の意味そのものを問い直したいという強い気持ちが伝わってくる。

むろん、この事実だけをもって有事には囚人のほうが信頼できるなどと言うつもりはない。だが、「解放」という制度が今なお残されていること、そして有事には加害者と被害者が入れ替わる可能性があることさえ念頭に入れておけば、無用な二次災害も防げるのかもしれない。

真実が明かされるまでに要した100年近くの月日は、あまりにも重い。そして無意識に流言蜚語へ加担することは、犯罪そのものよりもタチが悪いのだ。

刑務所のすべて―元刑務官が明かす (文春文庫)
作者:坂本 敏夫
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