『「こつ」と「スランプ」の研究』「体感」に「ことば」を、「ことば」に「体感」を

峰尾 健一2016年06月21日 印刷向け表示
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「こつ」と「スランプ」の研究 身体知の認知科学 (講談社選書メチエ)
作者:諏訪 正樹
出版社:講談社
発売日:2016-06-11
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何やらそそられるタイトルだ。とらえどころのない「こつ」と「スランプ」の正体に、いかにして迫っていくのか。そもそも、それらは研究できるものなのか。期待と不安が入り混じるまま読み進めた先に待っていたのは、思わぬアプローチと意外な着地点だった。

実は、「こつ」や「スランプ」についての話は本書の一面に過ぎない。研究対象とされているのはより広い領域、「身体知」である。

身体知とは、シンプルにいえば「からだに根ざした知」だと著者は言う。自転車の漕ぎ方やゴルフのドライバーなどが分かりやすい例だ。いわゆる「暗黙知」との違いは明確に書かれていないが、読んだ限りでは、「からだで理解する」というニュアンスをより強調した言い方が「身体知」だと思われる。

「からだに憶え込ませる」という言い回しがあるように、身体知は反復練習の中で徐々に感覚を掴むことで身につくもので、一見「ことば」は邪魔なように思える。自分の経験に照らし合わせてみても、うまくいかない時ほど脳内にことばが氾濫し、ああだこうだと考えていた気がするのだ。

しかし本書で一貫して繰り出されるのは、「身体知を学ぶためにはことばが重要な役割を果たす」という主張である。

とある学生が、自分を被験者にしてボウリングのスキルを学ぶプロセスを観察・分析した研究が紹介されている。約9ヶ月の間に204日ボウリング場に通い、なんと合計999回(!)ものゲームをこなしたのだそうだ。そしてボウリングをやった日には必ず、またそれ以外の日でも気づいたことがあればその都度、ノートにことばを書き綴った。

何を意識しながら投げたのか、そこでどんな問題意識が生まれたのか、次はどのような意識で投げるのか。身体での実践を通して、体感をことばで表現し、自己の問題意識を紡いでは、また身体で実践する。その繰り返しの末に、興味深い研究結果が得られた。

「ノートに綴ったことば」と「ボウリングのスコア」との間に、相関が生じたのだ。パフォーマンスが向上しない時期には、詳細な身体部位に留意する類のことばがよく出現した。一方で、パフォーマンスが向上する時期には詳細なことばが減り、全身や大きな身体部分を表すことばの割合が増えている。そして、そうした「悪い時期」と「良い時期」が交互に繰り返されたという。
この結果から、やはりことばが少ない方が調子が良いじゃないか、と考えるのは早計だ。著者は以下のように解釈している。

試行錯誤している時には、多種多様な着眼点に眼を向け、それら一つひとつの意味や関係性も見えていない。だが理解が成熟していくにつれ、細かな身体部位について模索する必要がなくなり、詳細なことばが減っていく。著者はこれが「身体知の獲得」だと言い、ことばが増すスランプの時期は、さらなる上達への準備期間であり「必要悪」だと語る。

こうした実験の結果以外にも、本書では様々な角度から身体知における「ことば」の重要性が語られる。ことばにすると「体感への留意」が高まる、ことばにすることで「着眼点」を得ることができる、などなど言語化することで起こる変化は想像以上に幅広い。

身体知は、必ずしも物理的に身体を通して得た知のみを指すわけではない。たとえば数学の二次関数ひとつとっても、公式を表面的に暗記する以外に、放物線をイメージしたり、ボールを投げ上げた時の軌跡として考えたりと様々な捉え方がある。自分の体感や生活の実感に根差した知識ならば、身体を直接介さずとも身体知になりえるのだ。

最も大事なことは、ことばを「自分で紡ぎだす」ことだという。体感それ自体も、その受けとめ方も、人それぞれ異なる主観的なものだ。誰かと完全に「同じ」ということがないからこそ、自分なりのことばで、自分なりの理解を作り上げていくことが、身体知を形成する上で重要になる。

身体を伴わずとも情報や知識を得られる今は、かつてないほど「受け売り」をしてしまいがちな時代だと言えるだろう。それはつまり、「分かったつもり」になりやすいということでもある。一体どこまでが「自分の考え」で、どこまでが「他人の考え」なのか。その境目が自分でも分からなくなることは誰にでもあるはずだ。「自分のことばで話しなさい」とはよく言われることだが、本書を読むと、身体知にまで落とし込んで考えたことこそが「自分のことば」になるのだと気づかされる。

著者は身体知を研究するにあたって、主観的な「ことば」のみを重視すべきだと言っているわけではない。アスリートの身体に密着するスポーツウェアの「しわ」を観測し、「すっと軸が通っている」などの体感に物理的側面から実態に迫ろうとする、客観的なアプローチの必要性も語っている。

体感を主観的に表した「ことば」のデータと、体感を客観的に測定して集めた「身体」のデータの双方を組み合わせ、「ことば」と「身体」が、どのように関わり合いながら身体知を形成していくのかを探っていく。それこそが、著者が考える、今後の身体知研究が進むべき道なのである。

同じ「理解」にも、「ことばによる理解」と「体感による理解」がある。読むうちに、その2つの関係性がじわりと掴めてくる。「ことば」だけでも、「体感」だけでも、物事を本当に理解したとはいえない。「分かる」とは一体何なのか、再考させられる一冊だ。 

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