人間の内側をえぐりだす作品『空也上人がいた』介護をする青年と、される側の人生

佐藤 樹里2016年08月02日 印刷向け表示
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
人と会っていると気まずい瞬間があるものです。もう昔の事になりますが、深夜に友達と近所のバーに行って飲んでいた時の事です。くだを巻いていると、隣に男女のカップルがやってきて座りました。男性は30代後半で、女性は20代半ばでしょうか。女性はべろんべろんに酔っていて、「あぁもう無理。」と肘をついているのですが、その男には興味がなさそうです。土曜の深夜1時、終電はもう終わっています。もうとっくに「たたみかけないといけない時間」は過ぎていて、なにもかもが手遅れでグダグダな雰囲気を感じました。女性も気に入らない男とどうして深夜まで一緒にいるのでしょう。こっちにも「絶対にセックスしたくない!」という感情が伝わってきます。と、失礼ながら見ていると男性と目が合いまして「お姉さん、どうすればいいんでしょうか?」と聞かれました。私に聞かれても全く困った話です。「頑張ってください。」と薄っぺらい言葉をかけて店を後にしてしまいました。二人は果たしてあの夜どうなったのか、今でもふっと想像してしまいます。この先を描ききり、ストーリーにするのが映画や小説やマンガの魅力だと思うのです。2人でしか知りえないものを、不特定多数に見せつけること。それも違和感なく、没入してしまうような見せ方です。面白い作品というのは、人の心をつかみ、時に爪痕を残します。逆に腑抜けた作品というのは、どうにもこうにも辻褄が合わないのです。例えば映画を想像してみてください。先のバーにいた男女なら、グダるシーンでフェードアウトして、次のシーンは数ヶ月後の昼。同じ相手とデートの待ち合わせで女性がワンピースを着て待っているシーンから始まったりします。お前らあの気まずい夜はどう乗り越えたんじゃ?とモヤモヤが爆発します。それでも主演女優が美人であれば、綺麗だったなあと満たされるので良いのですが。

東野圭吾さん原作、山田孝之さん、玉山鉄二さん出演の『手紙』という映画があります。生活の困窮により、強盗殺人を犯してしまった兄(玉山鉄二)と、犯罪を犯した兄に人生を狂わせられた弟(山田孝之)の話です。弟は兄の存在を隠して生きていますが、人生が軌道に乗りかけていたところで兄の存在が判明してしまい、周りの人が離れていき、恋人をも失います。失う恋人は良家の娘で、父親が現れて「もう娘には近づくな。」と言い放ちます。その時の弟の感情がこちらに入ってくるのです。悔しさ、絶望、憎悪。山田孝之さんの演技力も含めて、心をかき乱されるのです。

『空也上人がいた』は同じように人間の内側をえぐり出すような作品です。内に秘めた思い。善人でありたいと思う反面、裏側に隠している自らの過去を山田太一さんの人間の内側に迫るセリフと、新井英樹さんの繊細な表現で描いています。

空也上人がいた (IKKI COMIX)
作者:新井 英樹
出版社:小学館
発売日:2014-09-30
  • Amazon
  • Amazon Kindle
  • honto
  • e-hon
  • 紀伊國屋書店
  • HonyzClub

物語の舞台は特別養護老人ホームと、ヘルパーを必要とする独居老人宅です。疲弊する介護職の現場で、特別養護老人ホームで働く主人公の青年は車椅子からお婆さんを落としてしまう事故を起こします。お婆さんは後日目をさますのですが、日を置かずに青年は退職。偶然にもお婆さんは事故から6日後に亡くなります。青年は、「お婆さんが死んだのは自分のせいだ。いや自分のせいではない。」と禍根を残しながら、同僚が斡旋してくれた次の仕事に就くことになります。仕事先は81歳の独居男性の家でのヘルパー業務。癖のある老人ですが、よくしゃべりせっかちで、若い青年をお金の力でもてなします。うなぎ、寿司。通常使わないような高級デリバリーを頼みまくり、青年に食べさせて喜んでいるのです。そんな人の元で青年はいい気がしません。この人はお金は大丈夫なんだろうか。働きに来ているのにマウスのように実験させられている気分になります。しばらくすると老人がこう切り出します。

「ホームの廊下であんたかつまずいて、押していた車椅子の婆さんが飛び出してしまった。床に転がった。抱き起こした。認知症の婆さんがさは何が起きたか分からないよう。見たところ外傷はなかった。主任からは厳重注意。それで終わる話だった。だが、あんたは責任をとって、辞めると言いだした。〜6日後に婆さんが死んだ。痛々しい話を聞いたと思ったよ。その青年をいたわりたいと思った。婆さんの死因がどうのとかいうんじゃない。なにより20代の青年が、老婆とはいえ、異性の排泄物の始末と尻と性器の汚れを拭きとるのが一日の大きな仕事で、その上食べさせて寝かせて、認知症ばかりで気持ちの交流はほとんどない。凄まじいと思った。本当に頭が下がる。もっと報われなければならない。」

「キレたんだよね。あんたがさ。キレて、婆さんをほうり出した。違うか?つまずいてよろけて、避けようもなく婆さんをほうり出したんじゃない。キレたんだ。じゃなきゃ、あんたは辞めたりしない。」(『空也上人がいた』より)


言葉を受けた時、青年の顔は青ざめます。「知りません。知りません。なにも。」

人は誰しも触れられたくない部分というものがあります。この青年にとっては亡くなったお婆さんと車椅子の事は、決して触れられたくない事です。それを知っていて老人は、意地悪のように話を切り出し、反応を見るのです。

26歳と81歳のやりとりはとても奇妙なものです。一方はお風呂にも一人で入れず、介護される側ではありますが、雇用主であり、精神的に上の立場で若者を支配しています。しかしこの老人がただの意地悪ではなく、とても寂しい人だというのは、作品を通じて伝わってくるのです。読むこちら側も自然と目頭が熱くなり、心が揺さぶられます。

本作が心を打つ理由は新井英樹さんのタッチによるところも大きいです。手の重みでしずみこむソファーの描写。暑さ。温度。女の匂い。薄い壁をへだてた隣の家から聞こえるテレビの音。マンガなのに、まるで自分の記憶のように感じるのです。あの時あの場所で起こった事が、情景が、小気味が悪いくらい細かく描かれています。世の中には白も黒もなく、ただ疲弊しきった社会があるということを作品を通じて感じ取れます。

 巻末には山田太一さん×新井英樹さんの対談があります。対談なくして、作品の深さを語れません。新井英樹さんは未来の子どもたちへ残す世の中について言及しています。

 

空也上人がいた (IKKI COMIX)
作者:新井 英樹
出版社:小学館
発売日:2014-09-30
  • Amazon
  • Amazon Kindle
  • honto
  • e-hon
  • 紀伊國屋書店
  • HonyzClub

 こちらは山田太一さんの原作です。

記事へのコメント コメントする »

会員登録いただくと、記事へのコメントを投稿できます。
Twitter、Facebookにも同時に投稿できます。

※ 2014年3月26日以前にHONZ会員へご登録いただいた方も、パスワード登録などがお済みでない方は会員登録(再登録)をお願いします。

コメントの投稿

コメントの書き込みは、会員登録ログインをされてからご利用ください。

» ユーザー名を途中で変更された方へ
 変更後のユーザー名を反映させたい場合は、再度、ログインをお願いします。

ノンフィクションはこれを読め!  2014 - HONZが選んだ100冊
作者:
出版社:中央公論新社
発売日:2014-10-24
  • Amazon
  • Amazon Kindle
  • honto
  • e-hon
  • 紀伊國屋書店
  • HonyzClub

電子版も発売!『ノンフィクションはこれを読め! 2014』

HONZ会員登録はこちら

人気記事