『神経ハイジャック もしも「注意力」が奪われたら』常識が認識によって書き換えられるまで

讃井 知2016年08月08日 印刷向け表示
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神経ハイジャック――もしも「注意力」が奪われたら
作者:マット・リヒテル 翻訳:三木俊哉
出版社:英治出版
発売日:2016-06-21
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マルチタスクが注意力の欠如を招き、人々のパフォーマンスを低下させることの危険性は近年度々指摘されている。だが、そうは言われても「ながら作業」が既に習慣となってしまい、なかなかやめられない方も多いことだろう。

本書は19歳の若者が「ながら運転」の末に起こした事件の真相を追うと同時に、現代の高度情報化社会の危険性を主に神経科学の立場から明らかにしている。だが、この事件が起こった2006年はその危険性が広く認識されているとは言い難い状況であった。テクノロジーの発展に人間の情報処理能力が追い付かなくなるのは常だが、リスク認知も同様に遅れて広がっていくためである。

登場人物の一人であるレジー・ショーは、運転中にガールフレンドとテキストメールのやり取りを行ってしまい、交通事故を引き起こして二人の男性が命を落とした。

当時、彼が住んでいたユタ州では運転中の携帯電話の操作を過失致死として取り締まる法律はなく、彼自身もそれほど罪の意識が高くはなかったという。スピード違反の前科もなく、地元ではスポーツ万能の好青年として知られた彼が裁かれることになったのは、ちょうどその頃同様の事故が多発したこと、そして人間の注意力の限界を明らかにするアテンションサイエンスの研究が確立されつつあるタイミングだったことが関係していたのかもしれない。本書ではそれを「悪意に満ちたはみ出し者とはいえない人間をどう裁くかという完璧なテストケース」であると表現している。

だがもちろん、彼に落ち度がなかったのか、彼だけの問題ではないから責任がないのかと問われると、そうとも言い切れない。責任は、その時の社会や周囲の人間によって決められるものだからだ。

本書ではレジー、そしてその他の登場人物一人一人の背景が、非常に丁寧に説明される。被害者は仕事でも活躍し周囲の信頼も厚い人達であった。そして、残された家族にも人生の物語がある。それが一瞬の「不注意」、しかも防ぐことのできる不注意で全てが無くなったのだ。

もちろん、事件を担当する警察官や検事、弁護士にもそれぞれの事情がある。真実を突き詰める使命感、悪意の無い若者を罪に追い込んでいるという自責の念、前例の無い事例に取り組むプレッシャー、社会的な影響、未来への責任…。人間的な感情と理性的な思考がぶつかり合い、社会的な要請と相まって結論を出す必要に迫られていたのである。

そして、レジーの家族や被害者家族を支援する人達にもそれぞれの過去や思いがあった。関係する人たちの責任や「正義」がぶつかり合い、葛藤していく様子が、当時の社会背景とあわせて描写されている。

さらに本書のもう一つの特徴は、事件の発生原因を神経科学分野、特にアテンション・サイエンスの知見から説明を試みている点である。

アテンション・サイエンスが注目される以前の時代、人間の脳は無限の可能性を秘めていると考えられていた。しかし第二次世界大戦時、失敗が許されない状況であるにも関わらず、敵機を見落とす、予定していなかった町に爆弾を落とす、といったことが多発した。

このような「不注意」の改善を図るために、その原因を明らかにする研究の必要性が高まったのである。その結果、脳には限界があり、またテクノロジーの発展の結果、多様な情報に晒されることが常態化し、把握しきれぬほどの負荷を受けていることが明らかになってきた。

情報化社会の危険性とその対応について公共政策、神経科学、依存症研究の枠を超えた議論が展開されている本書は、レジーの事件、そして現代の様々な社会現象に対する説明を試みると同時に、処理できないほど膨大になった情報と、人間との関係の築き方について考えさせてくれる。

時代の「病理」と呼ばれるものは、必ず初期の段階では気づかれない。沢山の人間が様々な形でその病理の犠牲となることで認識が広まり、それぞれの思いが凝集され、制度・法律などの形となる。病理の成立プロセスを人間的な側面からも説明をしているところが、本書の最大の魅力でありメッセージと言える。今は「常識」と思われていることが、「認識」によってさらに別のものへと書き換えられていく日も、そう遠くはないのかもしれない。

※田中大輔のレビューはこちら、訳者あとがきはこちら

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