『身体巡礼』解剖的なひとのまなざし 文庫解説 by 沖方 丁

新潮文庫2016年12月03日 印刷向け表示
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身体巡礼: ドイツ・オーストリア・チェコ編 (新潮文庫 よ 24-12)
作者:養老 孟司
出版社:新潮社
発売日:2016-11-28
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メメント・モリとは、ラテン語で「死を忘るるなかれ」という意味の言葉だが、時代によってとらえ方が異なるという。ローマ時代などは、「どうせ死ぬなら陽気に生きよう」といった意味合いで使われていたそうだ。それがやがてキリスト教の普及により――死後の世界である天国や地獄のイメージが詳細になるにつれ――「現世で手に入るものなど空しいものばかりである。それよりも神の御意志を理解し、いつか来世(あるいは神のいる天国)に行けるようにすることが大事なのだ」といった逆転が起こったらしい。

いずれにせよメメント・モリは、道徳的な意味合いばかりではなく、様々な思想や芸術の取っかかりともなってきた。それは本書にも通じるのだが、養老先生がユニークなのは、真顔で「どうやって?」と問い返すところだ。

確かに、人は死を(死者を)忘れないようにしてきたらしい。では、その方法は?

そう問いながら、様々な時代や国に特有の死のあり方を、巧みに区分し、並べ、比較する。そして、検討するかと思いきや、面白がって眺める。面倒くさいものは素直に、面倒くさい、と言ってしまう。

その語り口の妙は、高尚で複雑な、いわゆる「高いハードル」が、ふっと自分の目線より低くなって、いつでもまたげるような気にさせてくれるところにある。それでいて、びっくりするような高みに読む者を連れ去ってしまう。何千年も前の歴史的な出来事を昨日のことのように語り、遠く離れた国の風景を近所にあったかのように語る。

その視点の鋭さは外科用メスじみているのに、決して読む方に緊張を覚えさせない。変に身構えさせず、むしろ軽妙に引き込み、興味を促す。

それが養老先生ご本人の意図かどうか、いまだにわからない。それほど一字一句として、作為的というか、わざとらしい言葉がないのである。こういう風に見せよう、自分の文章を価値あるものにしよう、と作為が過ぎてかえって瑕疵になっているということがない。あたかも自然現象のように、滾々と言葉が湧出している気分にさせられる。

まさに養老節としか言いようがない。長年の経験、特異な感性、人柄、文才といったものの融合である。真似できそうでできない。そのことを私自身が思い知っている。私はかれこれ20年以上も養老先生の著作のファンで、なんとかして語り口を盗めないかと試し続けてきたが、最近ではすっかり白旗を揚げている。語り口だけ抽出し、技術化しても意味がないからだ。それは養老先生特有のまなざし、そして心持ちと不可分なのである。

本書でも、そうした養老節がいかんなく発揮されている。まなざしが向けられるのは、古今東西の墓だ。いわば死者を覆う、第二の肉体である。それを我々の前で、巧みに解剖してみせる。そうすることで文明の核心へ迫り、現代に生きる我々への影響や、関連を示唆してくれる。

解体ではなく解剖という言葉をあえて使うのは、やはりそれが養老先生特有のまなざしだと思わされるからである。都市構造とか歴史といった、巨大で複雑なものをとらえようとするとき、たいてい、沢山の小さな部分へ解体することで理解しやすくする。そのとき、何を基準とするかで、まったく意味合いが変わってくることがある。

たとえばアカデミックな理論づけが先にある場合、理論を具体化したり強化したりするために要素を並べる。そのせいで、証明の道筋となるものは注目され、それ以外はどこかへ消えてしまったりする。無関係なもの同士を組み合わせ、強引に証明だと言い張ることもある。答えが先にあり、その理屈づけをしようとするゆえだ。

アカデミズムのみならず、マーケティング、環境問題、人種迫害の根拠となるおかしな理論、はたまた政治家の演説など、オカルトと大差のない解体と再編の手法は、世におびただしく存在する。

一方、解剖の基準は、純粋に形と機能であろう。もともと全てがつながっていて一つのものだった、という認識がある。ばらばらにしていったら訳の分からないものが現れたので、慌ててなかったことにする、ということはしない。切り分け、順番に並べていく。その切り分け方も、個々の機能がはっきりすることで変わることがある。

たとえば本書では、死者の状態を「一人称」「二人称」「三人称」と機能で切り分ける。あるものごとへの感想を、「一次情報」「二次情報」に分けて語ったりもする。

いずれも、先述した「外科用メスじみた鋭さ」である。特定のものごとを切り分けるだけでなく、それに関連する全てのものごとをスパスパ切っていく。

さらに養老先生の場合、そうした切り分けの大前提として、全体というものを常に認識している。死者の認証変化は、生者やコミュニティとの関係によるものとしてとらえられている。解剖される肉体を、その肉体が生きたコミュニティや、異なるコミュニティに通底する文化、その文化が発生した起源まで、大きなつながりの一つとしてとらえる。

だからその語り口は、墓の話をしたかと思うと、城の話になり、文明の話、虫の話、国の話、人の話など、あらゆる部分へつながってゆく。全て関連しあうものとして示されるのだ。話題がどこへ飛ぼうともいささかも淀まず、まるでさらさらの血液が異なる部分へ流れ込んでは循環するように、あらゆる部分を活き活きと描出する。

こうしたまなざしの根底にあるのは、違和感をそのまま抱き続ける、という心根だ。

日常の中で、「これってどういうことだろう?」といった疑問や、「何か気になる」といった感情を抱いたとしても、いちいち持続させないのが普通だろう。疲れるからである。日常という言葉には、疑問が存在せず、楽にしていられるという意味合いがふくまれている。人間は日常を好み、非日常は限られた時間と空間に限定したがる。あるいは、疑問に思うことや、遠ざけておきたいものを、非日常という枠に押し込む。

特に、死とか死体とかいった、なんとなく怖そうなものは、みんなで非日常の枠内に放り込んでしまう。日常では考える必要がない。そういう思い込みに対して、「そうなの?」と正面切って疑問を抱く。それも、ある時期に限定せず、おそろしく長期的に抱き続ける。

普通、作家にでもなろうとしない限り、そんな態度で生きたりはしない。疑問はある種の緊張状態である。ずっと正座し続けているようなものだ。誰かからそう命じられたわけでもないのに、わざわざそんな苦行的な生活を送る必要はないだろう。

だが稀に、それを苦しいと思わない人が現れる。そういう人が、長年の努力によって様々な発見や発明を成し遂げる。あるいは、こつこつ何かを収集したり、比較検討し続けることで、意外な関連を解き明かしたりする。

養老先生は明らかにそういう奇特な部類に入るのだが、さらに稀なのは、体験を重視しながらも、容易に取り込まれない無碍な態度を保ち、かつ不争の人だということである。

体験を重視するということは、常に新たな発見と疑問のサイクルへ自身を投げ込むということだ。本書では、ある興味に従い、ある疑問を解くため、わざわざヨーロッパへ出掛けていく。「草臥れた」とぼやきながらも、グーグル・マップで確認したところ、呆れるばかりの距離を移動している。その間、様々な体験をし、講義を聴き、適当に受け流しながら、次の体験へ赴く。

そういう「取材」を繰り返していくと、物質的な存在にたびたび出くわす。城や聖堂やおびただしい骸骨の群といった圧倒的な存在である。そうした存在は、問答無用で見る者を納得させるために造られている。百聞は一見にしかずというが、一見させて言葉も思考も奪うのである。そういうものを見て回りながら、一向に言葉も思考も奪われない。むしろ「見物にはいいが、他方では鬱陶しい限りである」などと言って一刀両断してしまう。純粋な取材を繰り返すのであって、いつの間にか自分が取り込まれるような、いうなればミイラ取りがミイラになる「取材」をしない。

今まさに体験する自分を、頭上から見下ろすようなものだ。こういうのを本当の無碍と――己を滞らせず、妨げるものがないさまと――いうべきなのだと思わされる。

にもかかわらず、本書において、この先生はあくまで不争の人なのである。
「無責任にいうしかない」「怒られそうだからやめた」「この種の議論に深入りしたくない」「言葉にして決めつけるようなものではない」「べつになんの保証もしませんけれどね」と、あらゆる局面で争わない言葉を記す。めっぽう鋭い文章を書いておきながら、刃として振るうことをしない。

無碍な態度は、ときに傍若無人とみなされ、反感や忌避感を抱かれ、争いになる。だがそうはならない。もしかすると、かつては養老先生も、ばっさばっさと人の心も切っていたのかもしれないが、少なくとも本書では、老子のいう不争を実践するような態度でいる。

だからこそ、なにものにも邪魔されずに興味や好奇心を発揮し続けることができる。

死者、あるいは死を巡るタブーと長く向き合いながらもそれに呑まれず、疑問を抱き続けながらも争わず、特異な視点と体験を提供しながらも読む者を心地よくさせる。

決して自身をメスとせず、鋭くものごとを切り分けながらも、切り分けたものを面白く、楽しく眺める。だから、養老先生の場合、解剖的なまなざしではなく、解剖的なひとのまなざしなのだと思う。

そういう風にものを見ることができるからこそ、死者も墓も生き生きと書かれ、日常の中に立ち現れる。そしてそれらと私達とが、実はひとつながりの何かであることを示してくれるのである。

(2016年9月、作家)  

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