『日米開戦と情報戦』目的の不明確さが招いた悲劇

堀内 勉2017年01月13日 印刷向け表示
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日米開戦と情報戦 (講談社現代新書)
作者:森山 優
出版社:講談社
発売日:2016-11-16
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日米戦争(太平洋戦争)とは何だったのか?なぜ今日に至っても歴史的評価が定まらないのか?そもそも日本は何のためにアメリカと戦争したのだろうか?

著者が指摘しているように、過去の出来事を知っている我々は、歴史に対して神の立場に立っている。全ての結末を知っている現在から、過去の人々の判断や行動を後講釈で説明しても意味がない。

「ルーズベルト大統領は真珠湾攻撃を知っていた」(ルーズベルト大統領は、ヨーロッパへの参戦の口実を作るため、攻撃を放置した)というありがちな陰謀論を斥け、「アメリカは真珠湾の軍事的脆弱性は十分理解していたが、日本による真珠湾攻撃に政治的・軍事的妥当性はないと判断していた」というのが筆者の見立てである。

冷静に考えてみれば、アメリカとイギリスが日本の暗号を解読していて日本軍の行動が筒抜けであったのなら、なぜ真珠湾の太平洋艦隊を壊滅させられ、フィリピン、マレーシア、シンガポールなどの植民地を攻略されてしまったのだろうか。単なる陰謀説では、米英が払った代償の大きさの説明がつかない。

実は、当時、日本もアメリカの暗号を解読しており、日米は互いに相手の外交文書を解読して、ともに出方を探っていたというのである。そして、日米間には戦争をしなければならない程の具体的な利害対立はなかったのだが、どちらにも情報バイアスがあり危機回避に失敗したため、誤解が誤解を呼んでやむを得ず誰も望んでいなかった戦争に突入してしまったというのが筆者の結論である。

本書に先立って2012年に上梓した『日本はなぜ開戦に踏み切ったか』の中で、著者は当時の政策決定過程を研究し、何も決められなかった日本の意思決定プロセスを解明している。

最初に対米開戦論が出たのは、1941年7月の日本の南部仏印進駐(フランス領インドシナへの日本軍の進駐)に対する同年8月からのアメリカ、イギリス、オランダによる対日全面禁輸を受けてだった。そして、ここから同年12月8日の真珠湾攻撃に至るまでの日本の政策決定のキーワードが、「非決定」と「両論併記」だったというのである。

つまり、明治憲法の構造上、当時の日本には国策を決める政治主体が存在せず、「国策」とされたものは、政府、陸海軍、外務省などの間の曖昧な合意の産物に過ぎなかった。そのため、全員の合意が得やすい小さな問題については決定できるが、その前提となる大きな問題については意見がまとまらないので、事務局が両論併記の玉虫色の素案を作り、最終決定を避けるということが常態化していたのである。

1941年8月の御前会議では、開戦について両論併記の帝国国策遂行方針が決まり、この後も正式な結論が出ないまま、次第に開戦に軸足を置く「国策」が何度も策定されていった。近衛首相は陸海軍の対立を調停できないまま内閣を投げ出してしまい、曖昧な合意と議論の先送りしかできなかった政府にとって唯一合意できたのが、東條内閣による対米開戦という最悪の結論であった。

この間のプロセスを詳細に見ても、いつ誰が開戦を決めたのかは、いまだに不明のままだというのである。只、この前著では全面禁輸以降の状況に絞って記述しているため、日米開戦の決断がどのような意図をもってなされたのかには触れられていない。

この「日本は何のためにアメリカと戦争をしたのか?」という、シンプル且つ極めて難しい問題に挑んだのが、本書『日米開戦と情報戦』である。

一般的に、戦争は政治の延長と考えられている。「戦争は政治におけるとは異なる手段をもってする政治の継続にほかならない」とクラウゼヴィッツが『戦争論』で語っているように、当事国が平和的手段である外交によって問題が解決できない場合に武力で決着をつけるのが戦争だが、この枠組みでは理解できないのが日米戦争なのである。

日本が開戦を決定する過程を調べると、常に目的と手段が錯綜し、政策決定が混乱していた。日本の南進政策(陸軍の北進論に対し、海軍が戦略物資を求めてインドシナ半島など南方地域を確保しようとした政策)、ABCD包囲網(アメリカAmerica、イギリスBritain、中国China、オランダDutchが日本に対して行った貿易制限)、アメリカのハル・ノート(1941年11月26日にアメリカ側から日本側に提示された、日本の中国・太平洋地域での権益の解放などを内容とする外交試案)など様々な論点はあるが、はっきりとした原因を読み取ることは難しい。

一般に、日米戦争は、アメリカによる東アジアにおける門戸開放・機会均等原則の主張と、それに挑戦する日本の「東亜新秩序」との激突であると理解されている。1938年11月3日、近衛文麿首相は日中戦争の目的を「東亜新秩序」の建設にあるとする声明を発した(第二次近衛声明)。しかし、この「東亜新秩序」自体が、泥沼化した日中戦争を解決するために苦し紛れにひねり出された構想だったのであり、日中戦争の目的自体がはっきりしていない。

上述の通り、日米開戦のきっかけとなったのは、1941年8月の対日全面禁輸であった。つまり、日本が戦争に踏み切った直接的な動機は、戦略物資の獲得であった。少なくとも当時の指導者層の認識としては、日本の「自存自衛」のために、これはやむを得ない戦争だったのである。

これを明確に打ち出したのが、1941年12月8日、開戦と同時に発表された「宣戦の詔書」であり、ここで昭和天皇は、英米が日本に軍事的・経済的な圧迫を加えたことで国の存立が危うくなり、「自存自衛」のためにやむなく戦争に訴えたと述べている。

そして、一旦始めた戦争に勝つために被占領地の協力が不可欠となり、そのために掲げられたのがアジアの解放、即ち、「大東亜共栄圏」のスローガンであり、これは勿論、「東亜新秩序」の看板を架け替えただけのものである。

しかし、そもそも「自存自衛」と「大東亜共栄圏」には大きな隔たりがあった。戦争目的を「自存自衛」に止めておけば米英との講和も容易になるが、植民地の解放までが目的として掲げられると、もう後戻りができなくなる。にも関わらず、結局、日本の戦争目的は両者のあいだを揺れ動き、敗色が濃くなった段階でも統一されることはなかったのである。

昭和天皇に国情を伝えるべく高松宮(昭和天皇の弟、海軍大佐)との連絡係であった細川護貞(細川護熙元首相の父)の日記には、1943年11月5,6日にフィリピンやビルマなど日本の占領地の代表を集めた大東亜会議が開催され、大東亜共同宣言が採択された直後の11月末に至っても、戦争目的に関する議論が政府と軍の間で繰り返される様子が記されている。このように、日本の戦争目的を明示したはずの共同宣言を出した後も、日本は戦争目的を明確にできていなかったのである。

この辺りの経緯は、筆者の現代ビジネスへの寄稿にも書かれているので、関心のある方はこちらも参考にして頂きたい。

日中戦争開戦から80年が経った今日でも、こうした日本の意思決定プロセスの不可解さは何ら変わっていない。昨今の大企業の不祥事を見ていると、一体、なぜこんなことになってしまうのか首を捻らざるを得ないことが多々ある。何となく既成事実だけが積み上がって、分かっているのに止められない。気が付いたら途中で引き返せなくなっている・・・『日米開戦と情報戦』は、そんな大組織の怖さを改めて考えてみるのに最適な本だと思う。

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マックス2017.8.8 12:09

いまだに摩訶不思議な意思決定は存在しますね。

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