好きだったあの子、懐かしいあの味。在りし日を想起させる切なる短編集『かもめのことはよく知らない』

マンガサロン『トリガー』2017年03月12日 印刷向け表示
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かもめのことはよく知らない (角川コミックス)
作者:中田 いくみ
出版社:KADOKAWA
発売日:2017-02-04
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普段は画家として活躍されている中田いくみさんの初単行本は、素朴で、切なさと懐かしさが胸いっぱいに広がる短編集です。

八編の短編が収録されていますが、その内の六編は十ページ以下。ファンタジー要素の混じった作品もありますが、潮の香る町での日常のほんの些細なできごとを切り取ったお話が多いです。

表題作「かもめのことはよく知らない」は、子供の頃の初恋を思い出すようなお話。転校先で通学班が一緒になったかもめ眉の女の子が、発する言葉とは裏腹に無性に気になってしまう少年。暗い洗面所で歯を磨くのを嫌がるほどに幼い彼ですが、想いが膨らんで耳に炎が灯ったように真っ赤になるシーンが微笑ましくてたまりません(ちなみに各作品の幕間には筆者による作品解説が挟まっているのでが、「かもしら」と略して良いようです)。

子供の純朴な恋が描かれたと思えば、「名も知らない男に抱かれる心づもりはもう出来ていた」というモノローグから始まる、「虫くい町にて」のように艶めいたお話もあります。

「七海里の話」、「夜のとばり」、「ハッカ」、「キャラメル君」にも共通するのは、秘めたる想いの無垢さ。ストレートには表現されない感情の、尊さと切なさがあります。言わば「月が綺麗ですね」のような、奥ゆかしい表現。不意に褒められて思わずカーテンにくるまってしまったり、物想う自分に自覚的になり鏡を見て「…ブス」と呟いてしまう女性たちの何と愛らしいことでしょう。

恋愛要素に加えて、子供と大人の対比、あるいは大人になるということそのものも描かれており、考えさせられます。状況が違ってはいても、抱く想いの本質は変わらない。ただ、そこには立場や義務が生じていて、あの頃と同じには振る舞えない。それでも、確かにあったあの時の想いが今も自分の中にあって、ふとした瞬間に鮮やかに蘇ることがある。もう戻れない甘苦い時間への祈りにも似た回顧は、読む側にも伝播します。あの頃共に過ごした彼ら彼女らが、せめて世界の優しい祝福を受けていれば良いなと願いました。

余談ですが、作中に出てくる取り立てて大ご馳走とも言えないような食べ物の数々がやたらと美味しそうで印象に残ります。

中華壺中天のラーメンに追加煮卵、佑子さんが揚げていたフライドポテト、ニコニコサンロードにある喫茶店の最近ちょっと辛くなってきたカレー、灯台の街のパン屋のおばあちゃんのクッキーやよしみの甘太郎焼、手づくりサンドイッチメルシーのイカフライサンド……

感情と味覚と嗅覚に訴求して、彼方の記憶を呼び起こすような物語の群れたち。普段の忙しない日々の中で忘れてしまいがちな、大切な想いの煌めきをそっと両の手の平で掬って見せてくれたような一冊でした。

 

文章:マンガサロン『トリガー』兎来栄寿

 

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