『会社苦いかしょっぱいか 社長と社員の日本文化史』通勤電車は今も昔も地獄

栗下 直也2017年06月30日 印刷向け表示
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会社苦いかしょっぱいか: 社長と社員の日本文化史
作者:パオロ・マッツァリーノ
出版社:春秋社
発売日:2017-06-09
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父は国際スパイ、母はナポリの花売り娘。自称イタリア生まれの謎の論客「パオロ・マッツァリーノ」という設定で著者がデビューしたのは2004年の『反社会学講座』。以降、統計や過去の新聞記事から人びとが「常識」と信じ込んでいる慣習や振る舞いを徹底的に嗤ってきた。食傷気味の読者もいるかもしれないが、多くの人が無縁ではない「企業社会」が本書の題材とと知れば、読まずにはいられないだろう。

マイホームや宴会、出張から、ここのろ病、社長と秘書と愛人まで。サラリーマン生活を送っていれば避けては通れないテーマに突っ込みまくる。

例えば、休日について。最近では有休の取得奨励はもちろん、企業によっては介護・看護を行う社員を対象に週休3日制の導入を準備する動きすらある。つい数十年前までは週休2日制を導入するのに侃々諤々の議論をしていたのとは隔世の感がある。

では、週休2日制を導入するときにどのような議論があったか。本書ではふり返っているのだが驚かざるをえない。1970年代に週休2日制の議論が世の中を賑わしていたとき、否定的な見方が多かったというが、その理由が、「6日でやっていた仕事を5日でやるには効率を上げなくてはいけない」、「生活のペースが狂って心身に不調を来す」などなど。冗談ではなく真剣な主張なのだから、黙り込んでしまう。

当時のミサワホームの社長に至っては「週休2日制くそくらえ論」なるタイトルからして過激な論考を雑誌に寄せ、「2日も休んで家にゴロゴロしてると会社への不満がたまるのでよくないと主張」したとか。いや、行った方が不満がたまるって。

本書の中でもっとも興味深かったのは、通勤電車の混雑について。確かに今でも満員電車はサラリーマンを憂鬱にさせるひとつだが、高度経済成長期の混雑ぶりは比較にならないほど深刻だった。

この前、午前8時くらいの丸ノ内線に乗っていたら、大学生らしき二人組が「満員電車、マジやばい」と漏らしていたが、車内は満員で窮屈ながらも、吊革につかまっていれば新聞を何とか読めるレベル。これがだいたい混雑率200%。乗車しようとドアから入った者が外に押し戻され、戻されつつもおかしな体勢で乗車できるのが250%。1960年代はその上をいく、300%だったのだ。

300%とは想像もつかないかもしれないが、1965年の朝日新聞には笑ってしまうような記事が掲載されているという。一車両にどれだけの人間が詰め込めるのか、体にどのような影響が出るのかを調べた実験をレポートしたのだ。乗客として参加したのが、陸上自衛隊習志野第一空挺団の隊員600人。もはや混雑率が100%に達しなくても暑苦しい、強力すぎる布陣ではないか。

当時の一両あたりの定員は144人。実験では492人まで詰め込んだところで、中止命令がでる。片足が宙に浮き、窓際の人々はみな窓枠に手をつき、車体が壊れると判断したからだ。

ところが、驚いてはいけない。国鉄が実際に走行中の中央線の通勤車両を調べたところ500人以上が乗っていたという。おいおい、死人はまだしもけが人でも出るんじゃないかとの考えが浮かぶが、実際、無事に電車を降りられないケースもあったのだ。

現代ほど窓ガラスの性能も良くないため、毎日100枚以上の窓ガラスがばりばりと割れ、怪我するなど日常茶飯事。中にはラッシュで押しつぶされ、子宮が裂けて緊急搬送されるなどのケースも。けがを負わなくても、ラッシュに揉まれ靴をなくす乗客も。そんなバカなと思われるだろうが、1962年には秋葉原駅で草履とサンダルの貸し出しを始める。毎日、6、7人が利用していたというから当時の満員電車は靴をなくしかねない場所だったのである。

1973年には埼玉県の上尾駅で国鉄職員のストライキにより、電車が止まったまま動かない状態になったことで、暴動が起きたという。駅設備や電車が片っ端から破壊され、機動隊まで出動したというから通勤するのも命がけである。

けがをしてでも靴が脱げても、暴動を起こしてでも会社を目指す姿勢が日本の高度経済成長期の正しい会社員の姿であったのかと思うと何だか複雑である。耐えがたきを耐える精神はこのころは健在だったのである。

もちろん、著者が通勤列車を取り上げるのは、単に過酷さを示ししたいわけでない。「昔はよかった」わけではないことをここでも示唆してくれる。戦後の産物と思われがちな「ラッシュアワー」という言葉、実は大正時代にすでに生まれていたのだ。第一次大戦後の好景気で労働者が流入し、住宅難に悩まされるほど人口が爆発的に増えたという。当時の庶民の足は路面電車だったのだが、この混雑ぶりが現代以上にひどい。混みすぎて怪我するどころか、混みすぎて乗りたくても、乗れないのだ。

当時の市電は、満員でこれ以上乗れないと車掌が判断した場合、停留所を通過してしまいました。そのため停留所で何台も満員電車を見送り、何十分も待ち続けることもしばしば。無理に乗ろうとする場合、ケンカを覚悟で突入しなければなりません。

そんな覚悟、必要なんですかと思うのだが、動き出した電車に飛び乗ろうとした車掌が満員の客に道にはね飛ばされて路上に転がってしまうというから、生半可な気持ちでは乗ってはいけないかもしれない。

あまりにも満員電車の歴史が興味深かったので詳述してしまったが、他の章も読み込んでしまうのは必至だ。ビジネスマナーを扱った章では「お疲れ様」と「ご苦労様」の歴史を辿る。現代では部下が上司に向かって「ご苦労様です」と声をかけると失礼なので「お疲れ様です」が一般的だが、実はそう長い歴史があるものではない。「ご苦労様」は江戸時代は目下から目上に使うことが大半であった。一方の「お疲れ様」は1980年代まではほぼ一般社会では使われていなかったとか。芸能界だけで使われていた業界用語的なあいさつだったのである。

我々が常識と信じてることは意外にも脆いことを今回も教えてくれたマッツァリーノ先生。我々が六本木をギロッポンと呼び、寿司ならぬシースーを食しながら、夜なのに「おはようございます」と元気よく挨拶する日が来ないとも限らないのだ。

「昔はよかった」病 (新潮新書)
作者:パオロ・マッツァリーノ
出版社:新潮社
発売日:2015-07-17
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昔については思い出補正のゆがんだフィルターが機能しているだけで、庶民文化史を客観的に判断すればむかしの社会はちっともよくない。いまのほうがずっといい。いつもながらの、マッツァリーノ大先生の鉄板の結論である。レビューはこちらから。 

エラい人にはウソがある ―論語好きの孔子知らず
作者:パオロ・マッツァリーノ
出版社:さくら舎
発売日:2015-10-07
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「昔は良かった」と懐かしむこともできない2500年前の中国。「昔は良かった頃の偉大な人」で、もはや誰も突っ込むことができない「孔子」と彼の言動をまとめた『論語』に敢然と切り込んだ一冊。 

戦前の少年犯罪
作者:管賀 江留郎
出版社:築地書館
発売日:2007-10-30
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「治安が悪化している。マジ、最近の青少年ヤバイ」って人は是非本書の一読を。マジでヤバイのは戦前です。 

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ノンフィクションはこれを読め!  2014 - HONZが選んだ100冊
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