女性向けおねショタが問いかける、手を差し伸べることの難しさ――『私の少年』

bookish2017年08月31日 印刷向け表示
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私の少年 1-3巻セット
作者:高野 ひと深
出版社:双葉社
発売日:2016-06-11
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 ボーイズラブ(BL)と並びマイナーなマンガのジャンルに「おねショタ」「ショタコン」があります。「年上女性と、小学生前後の男の子(ショタ)による恋物語」というもの。もともと男性向けジャンルのひとつのようですが、実はしっかりオフライン・オンラインで女性も楽しんでいます。そしてとうとうこの女性向けおねショタ、メジャーデビューのときを迎えたーーそう思わされたきっかけが高野ひと深さんの『私の少年』です。現代のご近所付き合い、他人に手を差し伸べることの難しさについても考えさせられます。

 

 ■女性向けおねショタ、ついにメジャーへ
物語は30歳の会社員、多和田聡子と、美しい12歳の少年、早見真修の深夜の出会いから。多和田は元恋人との関係や、母親との確執、真修は父親との関係で、それぞれ孤独を感じており、それを埋めるかのように2人の距離を縮めてきます。『このマンガがすごい!2017』(宝島社)のオトコ編で第2位に入りました。

私がこの作品を初めて知ったのは、ネットサーフィン中の広告。タイトルと説明から「なんだこれは」と思い、手に取りました。「某サッカーゲームの同人誌や、某刀が擬人化されるゲームの同人誌でこっそり楽しんできたものが白日のもとに」と動揺しました。

 『私の少年』は、そもそも2人の抱く感情が恋心なのか、単なる人とのつながりを求めてのものなのか、まだはっきりとは描かれていません。この先2人がどうなっていくのかもわからない。でも出版社の煽り文句は「この感情は母性? それとも――」。――明らかに女性側の淡い恋心の可能性を示唆しています。物語のなかでも、真修の意思の込められた強い目線は、読者の方を向いていて、多和田に感情移入して物語を楽しむしかけに。私は新しい扉を開きかけました。マンガ好きの人たちとの会話で『私の少年』を話題に出したとき、「おねショタがメジャーになるんですかね?」と女性にいわれ「ああ、二次元の世界なら扉を開いてもいいのかも」といまは思いつつあります。

 ※ちなみにおねショタはもともと男性向けジャンル。しかも『私の少年』の掲載誌は「月刊アクション」。『このマンガがすごい!2017』でもオトコ編に入っていたので、「男性はどう読んでいるのか」ともやもやしていました。このとき一緒に居た男性が「男性にとって、年上のきれいな女性にどきどきするのは憧れなんです」と力説してくれたことで腑に落ちました。

 おねショタの物語には、「年上の女性が年下の男の子を教え導く」「年下の男の子の熱意が、年上女性の心を動かす」という要素があります。男性に光源氏願望があるように、女性にも育成願望があるのでしょう。『私の少年』でも、多和田が真修にサッカーを教え、プールや回転すし屋と新しいところにつれていく一方、真修は多和田の心を満たす。この構図がきれいに描かれていました。自分より年下の人を育てたい、頼られたいと思うのは、人類が文字を獲得し、知識や知恵を引き継ぐことができるようになったからこその必然なのかもしれません。

実は過去の少女マンガでは、こうした「年上の女性と年下男性がひかれあう」というのは取り上げられてきました。山田南平さんの『久美子&真吾シリーズ』や日渡早紀さんの『ぼくの地球を守って』など。一条ゆかりさんの『恋のめまい 愛の傷』も相手の男性は登場時、高校生でした。私は恋愛物語のカタルシスは「ハードルを越える瞬間を目にすること」だと考えています。その点ではBLは同性同士(最近はLGBTの理解が進み、ハードルは高くないのではという認識が広がりつつあるのは周知の通り)、おねショタは年齢と法律、世間の目という、「男女のつりあいのとれた年齢同士の恋愛」よりも、高いハードルがあります。

■おねショタを美しい物語にしない

 しかし過去の作品と『私の少年が』が決定的に違うのは、「年上女性と年下男性がひかれあう」ことを必ずしも美しい物語として扱っていないことです。第1話から、多和田の家のテレビニュースではわいせつ罪のニュースが流れており、なんとなく不穏な雰囲気。そもそも多和田が真修に声をかけたのも、怪しい男性が真修に声をかけようとしていたからです。そして第3巻では、真修の親からの「抗議」で多和田は懲罰的に地方に転勤することになってしまいました。過去の作品の「周囲の反対で2人がぎくしゃく」よりも、より年の差、特に未成年を相手にすることはハードルを高いもの、社会的に禁忌とされるものとして描いています。

 では描くべきではないのか―ー。私はそうは思いません。多和田は真修との出会いを通じて「幼い相手に自分がいろいろ与えているようで、実は与えられていた」と気がつきます。そしてなんとなく周りの人と関わっていても、実は孤独を抱えているーーこうした人の心の闇の部分は、実は同じ暗さを抱えた人との出会いで自覚するもの。多和田と真修の出会いと別れの物語は「あなたは本当に人と関わっていますか。本当の自分の心の奥底の欲望に気がついていますか」と読者につきつけてきます。年上女性と未成年の男の子という危うさはあれど、人との深いつながりに臆病になっている人にこそ、この物語に触れて、何かを与え、そして与えられる相手とのつながりのよさを実感してほしいと思います。

■ふと考える、他人に手を差し伸べることの難しさ 

 そしてさらに考えさせられるのが、現代社会のご近所つきあい、特に他人に手を差し伸べることの難しさについて。多和田に最終通告を突きつけた真修の父親。会社を通じて多和田に働きかけたことから、仕事はきちんとしているようですが、家庭での真修とコミュニケーションについては、読者はいまのところ疑問を持つように描かれています。

 「夜、公演に一人でいる子供に、周囲の人が好意をもって手をさしのべる」という多和田の最初の行動は、けしてネガティブなものではないはず。手をさしのべたい相手がいて、しかもその相手の家族にアクセスしにくいとき、周囲に誤解されないためには現実社会ではどう行動すればいいのか。思いついたら、第1話の多和田に伝えたいです。

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