おすすめ本レビュー

内田先生に学ぶ『街場の読書論』

刀根 明日香2012年4月25日
街場の読書論

作者:内田樹
出版社:太田出版
発売日:2012-04-12
  • Amazon
  • honto
  • e-hon
  • 紀伊國屋書店
  • 丸善&ジュンク堂

本書は著者がブログの中の読書関連エッセイと、活字媒体に発表した文学と書物についてのエッセイをまとめたものであり、ウチダ思想がぎっしりつまっている。400ページあり、たった1680円。かなりお買い得であろう。「文芸棚」、「人文棚」、「ウチダ本棚」、「教育棚」、「著作権棚」、そして「表現とリテラシー」と、全部で5つの本棚と1つのウチダ論という構成である。本書は「HONZ」と同じように、お気に入り本の寄せ集めでもある。「文芸棚」では96冊もの本が登場(1つ1つのエッセイの後に、参考文献としてすべて列挙されている。)、5つの本棚で約200冊が取り上げられ、それだけで興奮をさそう。新しい本との出会いは本好きをいっそう加速させる。

読書論だから、もちろん著者が日々どのように「読書」しているかが話題の中心で、それはそれで非常に興味深いのだが、単著と共編書を合わせて60作を越す作品を公表している著者ゆえ、「書き手」としての目線も際立つ。たとえばエッセイのひとつ「疾走する文体について」。

ドライブする文体と、そうでない文体がある。すぐれた作家は一行目から「ぐい」と読者の襟首をつかんで、一気に物語内的世界に拉致し去る「力技」を使う。

高橋源一郎著「『悪』と戦う」を用いて、次のように説く。

この文体の速度は、崖から滑り落ちてゆく人間が手に触れる限りのでっぱりやくぼみや木の根や葦に指を絡めようとする運動の速さに近いです。どこに落ちてゆくのかわからないまま、必死で崖面を探っている「落下者」の指先は「つかめるもの」と「つかめないもの」を触れた瞬間に判断します。その敏感な指先が選び出した「ホールド」となりうる言葉だけが小説を構成したとしたら、そこには無駄な言葉が1つもない小説が出現することになる。

このように伝え方をたくさんの比喩を用いて説明してくれるので、とても分かりやすい。崖から落ちて、一生懸命何かをつかもうとする自分、そのスリル感を想像上で感じ取る。言葉を離れて、イメージとして理解できる。

エッセイを読むといつも、クレーンで高く、高くつり上げられている感覚を味わう。頭の良い、ユーモア抜群な誰かに自分を勝手に投影する。眺めの良い景色を観て、少し知ったかぶりをして、他人に私がその本から学んだことを聞かせて良い気分になる。そして、いくつかの考えに共感することによって、また、(他人の言葉で上手く言い表されているため)自分の言葉を使わずにアウトプットが出来るという点で、自分が少し賢くなる錯覚に陥る。

しかし、ちょっとした風が吹くだけで、私のクレーンは倒れてしまい、すぐに自分の無知や短絡的な考えが露呈する。何の刺激も与えず、すやすや眠らせてきた自分の脳に申し訳なく思う。今まで学校で何を学んできたのだろう。結局学校も、空気を読む、読まないかの世界ではないか。本書内「人文棚」に収められた「恐怖のシンクロニシティ」というエッセイを読むにつけ、私たちが今まで読んできた「空気」の中身が、ひじょうに下らないものであったことを痛感する。その「空気」は、先生が何を求めているかである。「あの先生はテストの論述でこの箇所を書いて欲しいと思っているようだ」、「先生が出版した本には、こんな考えが書いてあるから、論述はこうやって仕上げよう」、多くの授業をこういった甘い考えでやり過ごして来た。

そしてこの本に出会った、私の率直な感情は「悔しい」ということだ。とても悔しい! 私は考え方も伝え方も不十分。エッセイの内容も半分も理解できていないかもしれない。自分の脳だって、(内田樹みたいに)立派に開花してもらいたい。自分の考えを他人の言葉ですんなりと語られてしまったら、「ああ、そうですね」で終わってしまい、自分の居場所がなくなってしまう。だから私はこのエッセイを何度も、何度も読む。伝え方を一生懸命模倣する。脳を訓練させるように。将来自分の脳が開花してくれるように。

しかし、そんなに肩に力を入れて本書を読んでいても疲れるだけなので、慰めの言葉を探していたところ、ちゃんとあった。「文芸棚」内の「scanとread」では、著者は「読書とは何か」を説いている。マンガを読むことや、レストランのメニューを見るのは読書と言えるか? 著者はそれらをすべて「読書」と呼ぶ。

本を開いてぱらぱら頁をめくっていれば、それはすでに「読書」である。というのは、読書には少なくとも二つの形態がありうるということである。

一つは「文字を画像情報として入力する作業」、一つは「入力した画像を意味として解読する作業」である。私たちが因習的に「読書」と呼んでいるのは二番目の工程のことである。

新聞を広げて、「斜め読み」をしているのはscanである。ふと気になる文字列が「フック」して、目を戻して、その記事を最初から読むのはreadである。

そして、このあと日本の国語教育はscanを軽視しているため、「国語力」にどうしても結びつかないという論に続く。readだけが読書ではない。scanも読書の重要な一部である。ならば他の本でscanを訓練してから、もう一度内田樹のエッセイに戻ってこよう。そう決意して脱力本に逃げてしまうから先が思いやられるのだが……。