HONZでは小説の話題はほとんど出ないが、佐伯泰英という作家の名前は聞いたことがあるだろう。時代小説文庫書下ろしというスタイルを確立した大人気作家である。1999年から現在まで、著作数180冊あまり、累計部数4000万部という途方もない売り上げを誇っている。
本書は、佐伯が熱海に仕事場を構えたところから話は始まる。東京から車でも新幹線でも1時間半ほどで、海と温泉の町だ。現在はいくらか人気を取り戻したとはいえ、団体客が押し寄せたかつての人気はなく、むしろ寂れた印象が強い。佐伯泰英人気が定着し、都内のマンションの職住同居から環境を変えたいと思った結果だ。2003年のことである。
伊豆山に近い海岸へりに、戦前、分譲された閑静な物件を手に入れた。隣には「岩波別荘」が建っていた。岩波書店の創始者、岩波茂雄が建築家の吉田五十八に依頼して作り上げたこの家は『惜櫟荘』と名付けられていた。佐伯は仕事場から借景として見えるこの別荘の風景をとても気に入っていた。遊びに来た友人は「熱海のモンサンミッシェル」と感嘆した。庭師が入っているときに見せてもらったに庭と風景はすばらしく、一度は中に入ってみたいと思っていた。
その矢先の2008年、岩波の代理人から惜櫟荘を手放すことになったと知らせが入る。開発業者に渡れば、この場所はつぶされ無粋なマンションになることは間違いない。戦前からの大金持ちが贅と粋を極め、「近代数寄屋様式」を作り上げた吉田五十八の建築が無くなってしまう。そう思った瞬間、佐伯は「惜櫟荘」を買うことを決めた。この屋敷の番人になったのだ。
軍事物資が優先される時代において、岩波茂雄は八方手を尽くして最高の木材、石材を集め、吉田五十八は京都から大工、左官、石工を呼び寄せて完成させた。
しかし建築後70年を経た建物は傷みが激しい。修繕も今まで一度しかされたことがないという。番人となった佐伯は腹を決めた。惜櫟荘の全面修復、それもすべてを一度解体し、土台から新たに作り、使える材はすべて使って再建築する。設計原図も残っておらず、当時の記録もない。吉田五十八という建築家はその場で仕様を変えてしまうことも平気でした。そこで最初に行ったのは惜櫟荘の実測図を起こし直すことだった。建物だけでなく窓の金具から戸車まで原寸大で起こす作業だけで4か月ほどかかっている。
解体がはじまると岩波茂雄のわがままと、吉田五十八の意地とがぶつかり合う様子が目に浮かぶようにさまざまな工夫が見て取れる。圧巻は窓の開口部である。海に向かって開かれた窓はすべて戸袋にしまわれる。額縁のように窓全面が風景になる。障子3枚、窓ガラス3枚、網戸3枚、雨戸3枚すべてが見えない戸袋一か所にまとめられた。十二単(じゅうにひとえ)という美しい名前で呼ばれるこの方式は、本書で何回も写真入りで紹介されている。どれだけ佐伯が気に入ったのか、それだけでもよくわかる。
東日本大震災が日本人の意識を大きく変えつつあるように、関東大震災を経験した後、当時の建築家の思想も変わった。吉田五十八は和風建築の伝統的形式の木割りによる「規矩作法」を脱し、建物の壁のなかに仕上げ材で柱や梁の構造体を隠す「近代数寄屋」を考案した。解体作業を進めるうちに、壁のなかに隠されたさまざまな秘密も明かされる。建築に暗い私のような読者でも、佐伯がわくわくしていくのと同じように心が躍る。
本書は惜櫟荘の大改修と同時に、小説家・佐伯泰英の人生が語られる。スペインに住み、闘牛などを専門に撮影していたカメラマン時代や、当時付き合いのあったスペイン在住の日本人たちとの交流、そして自身のガン闘病。
私はかすかだが、そのころの佐伯を知っている。北方謙三ボスの秘書をしていたころ、長期の海外旅行を唯一の息抜きにしていたボスは、大好きなスペイン訪問には、必ず佐伯泰英を伴った。滞在していたときに有名な闘牛士が牛に付き殺され、大きな葬儀が執り行われた。それを泰英(タイエイ)さんとふたりで取材した話はボスの口から何度も聞いていた。
そして惜櫟荘は一からまた構築されていく。現在の一流の建築家、棟梁、工務店、職人たちが知恵を集め悩みぬき、作り上げられていく過程は胸をすく。そして2年余りの歳月を経て、いよいよの修復落成式。ここで凡人がずっと思っていたお金の話が少しだけ明かされる。当代一の人気作家は、莫大にかかったと思われる資金を、出版社に前借りしていたようだ。果たして総額はいくらかかったのか、卑しいけれど気になる。
文庫という形式は、岩波茂雄が発案したものだ。それが進化し日本人に浸透して、今では当たり前の存在になっている。彼が贅を尽くして建てた惜櫟荘が、時代小説文庫書下ろしの大人気作家の手に渡ったのも運命なのかもしれない。岩波書店のPR誌『図書』の連載は『惜櫟荘の四季』として続くという。できることなら、この素晴らしい建築を実際に見てみたい。本書を読んだ人なら誰もがそう思うことだろう。
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惜櫟荘主人 一つの岩波茂雄伝 (講談社文芸文庫―現代日本のエッセイ)
本書にも数多く引用されている伝記である。未読なので、すぐに手に入れようと思っている。
不動の人気を誇るシリーズ。現在39巻。
当然ながらやはり、この建築家についても知りたくなる。