この本は、2012年1月に発売された『Coming Apart』の邦訳である。本書は、発売直後からニューヨーク・タイムズ、ウォール・ストリートジャーナルなどの高級紙に軒並み書評が掲載され、全米で大きな反響を集めた。ノーベル賞経済学者ポール・クルーグマンがブログで批判的コメントをする一方、『マネーの進化史』のニーアル・ファーガソンは肯定的意見を寄稿するなど、その反響は賛否の入り混じったものだった。米国の二極化に警鐘を鳴らす本書を巡って、米国言論界は二分されたのである。
著者は保守系シンクタンクAEIの研究員チャールズ・マレーである。彼は1994年に共著者として、人種によるIQの差異を指摘する『Bell Curve』を出版し、これまた大論争を巻き起こした経験を持つ。そんなマレーの最新作である本書の重点は、アメリカがどれほど断絶してしまったのかを明らかにすることに置かれている。
本書が大きな論争を呼んだのは、大量の統計データを基に描き出されたアメリカの姿があまりにも衝撃的だったからだ。本書に向けられた批判の多くは、「なぜ」アメリカは断絶してしまったのかという分析や、「どのように」その断絶を克服するかという提案の部分に向けられており、著者が最も伝えたかった、「アメリカが断絶してしまった」という事実は概ね受け入れられている。著者もこのような批判は予想していたようで、事実と意見を可能な限り切り分けようとする姿勢が読み取れる。
大量の脚注と解説が添えられ558ページにも及ぶこの本は、3部構成となっている。第Ⅰ部「新上流階級の誕生」では、アメリカに大きな影響を与える新たなエリート達の実態が、続く第Ⅱ部「新下層階級の誕生」では、2つの階級で人々の生活や価値観がどれほど異なるかが示される。そして、第Ⅲ部「それの何が問題なのか」では、小さな政府の実現を目指す著者の考える、アメリカのあるべき姿、エリートのあるべき振る舞いが問いかけられている。
この大部における著者の主張の全てに同意することは難しいが、ケネディ暗殺の前日にスポットを当てることで、いかに世界が変わってしまったかを伝えるプロローグを読んだ後で、ページをめくる手を止めることはもっと難しい。読めば読むほど、知れば知るほど、続きが気になって仕方がなくなる本なのだ。ここからは、マレーの手によって光が当てられたアメリカの驚くべき姿の一部を紹介したい。
『クリエイティブ資本論』で提唱された「クリエイティブ・クラス」や、『アメリカ新上流階級 ボボズ』で描かれたブルジョアとボヘミアンが融合した新たなライフスタイルを送る「BOBO」など、21世紀を生きる新たなエリート像についてはこれまでも数多く語られてきた。マレーは本書で、より定量的にアメリカの新上流階級の姿を明らかにしていく。統計分析のため、新上流階級は経営管理職、専門職(医師、科学者など)の上位5%と定義される。これは、多くの企業の経営幹部、政府行政部門の上級管理職などをカバーするボリュームだ。
”新”上流階級がどのように新しいのかは、過去の上流階級の顔ぶれを見ればよく分かる。例えば、1953年に大統領に就任したアイゼンハワーの初代顧問団10人の内、富裕層出身者は2名だけであり、残りは農家や普通のサラリーマンの家庭出身である。つまり、この頃までのアメリカを動かすしていたのは、多様な階層を出自とする人々だったのだ。当時は、富裕層と下層の間での交流も珍しくなく、貧富の差がライフスタイルや価値観の違いに直結していなかったという。また、一流大学にも現在ほどIQの高い学生が偏っておらず、1952年のハーバード大学新入生のSAT(大学進学適正試験)の点数は全国平均をわずかに上回るに過ぎなかった。
しかし、現在ハーバード大学に入学しようと思えば全国平均を遥かに上回る点数を取る必要があり、一流大学には似たようなバックグラウンドを持つ学生が溢れている。また、新上流階級は他の階層との接触が極端に少なく、しかもその階層が世代を超えて固定されつつあるという。ジップコード(郵便番号)に紐つくデータを用いて、新上流階級がどれほど地理的・経済的に隔離されているかを分かり易いグラフで可視化していく部分は、本書の白眉である。マレーは、世帯所得と学歴の平均が上位5%に入る居住地域を「スーパージップ」と名付け、詳細にその特徴を分析していく。
この新たな階級がアメリカに良い影響を与えている面があることを認めつつも、著者は新上流階級を以下のように表現している。
かつてアメリカを動かしていたのは文化的に多様な人々だったが、今この国を動かしているのは文化的に類似し、しかも自分の世界に閉じこもりつつある新上流階級である
第Ⅱ部では新上流階級と新下層階級それぞれの母集団である、上流中産階級と労働者階級の意識・行動の時系列変化が示される。統計データをより具体的にイメージするために、大卒以上で高位専門職・経営管理職に就いている人はベルモントの人々、高卒以下でブルーカラー職や下級ホワイトカラー職に就いている人はフィッシュタウンの人々という風に、架空の都市名を用いて表現されている。
マレーは、アメリカ建国の時代から続くアメリカの美徳は、「勤勉、正直、結婚、信仰」の4つに集約されるとし、これら4つの美徳がベルモントとフィッシュタウンでどのように変化してきたかを解説する。ここで示されるベルモントとフィッシュタウンの現状は、新大陸で、欧州とは異なる理念に基づく国を作るという「アメリカン・プロジェクト」の終焉を暗示している。
ソーシャル・キャピタルという概念の提唱者であるロバート・パットナムは、2000年に出版された『孤独なボウリング』の中でアメリカ社会を支えるコミュニティの崩壊、弱体化を指摘した。マレーが本書で示すデータによると、このソーシャル・キャピタルの希薄化は、ベルモントよりもフィッシュタウンで進行が著しいようだ。フィッシュタウンではベルモントよりも離婚率が高く、教会を訪れる人も少ない。そこには、私たちが想像する「貧しくとも手を取り合う信心深い人々」の姿はなく、孤立した個人が漂うのみだ。
第Ⅱ部の終盤でマレーは、フィラデルフィア北東に実在するフィッシュタウンと呼ばれる都市部の貧困地域を訪ねている。現実のフィッシュタウンでマレーが見たものは、アメリカの土台を支えるはずの労働者階級のコミュニティの崩壊だ。どんな統計データよりも生々しく、断絶のリアルが語られる。
第Ⅰ、Ⅱ部で明らかにされた断絶の本当の問題はどこにあるのか、そしてその問題にどう対処すべきかを議論する第Ⅲ部は、アレクシ・ド・トクヴィルが19世紀末のアメリカ視察の成果をまとめた『アメリカのデモクラシー』の引用から始まる。
アメリカ人は年齢、境遇、考え方の如何を問わず、誰もが絶えず団体をつくる。(略)新たな事業の先頭に立つのは、フランスならいつでも政府であり、イギリスならつねに大領主だが、合衆国ではどんな場合にも間違いなくそこに結社の姿が見出される。
トクヴィルが賞賛したアメリカは、本当に失われてしまったのか。クライマックスに向かうにつれて、著者の保守派、リバタリアンとしての主張がより色濃く顔を出してくる。マレーはアメリカン・プロジェクトこそが、「人々が幸福を追求しうる最善の仕組み」であると断言し、ヨーロッパ・モデルの福祉型国家が抱える問題、大きな政府の非効率性を厳しく批判する。アメリカという国のあるべき姿を改めて考える必要性を、マレーは訴えているのかもしれない。
本書で著者が使用しているジップコード別のデータは、2000年の国勢調査に基づいている*。つまり、マレーが描き出したアメリカの断絶は今から10年以上前に決定的なものとなっていたということだ。彼は、これから起こるかもしれない未来へ警鐘を鳴らしているのではなく、既に起きてしまった過去を改めて知らしめているのだ。この断絶が解消される兆しはなく、具体的な特効薬も見当たらない。世界をリードし続けてきたアメリカの変化は世界にどのような意味をもたらすのか。日本でもこのような断絶が起こっているのか。湧き上がる疑問とともに、世界を視るための新たな視点が与えられる。
*原書の発売時には公開されていなかった2010年の国勢調査は既に公開されているので、こちらのデータから、直近のスーパージップの姿を見ることができる。
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アメリカの市井の人々について知るには、やはりこの人の本がうってつけである。驚くべきアメリカの普通の人々の生活を描き出すこの本も、昨年文庫化された。また、Kindle版も出ている。成毛眞のレビューはこちら。
映画化もされた人気漫画『闇金ウシジマくん』を題材に社会学とは何か、社会学を用いて見える日本の社会とはどのようなものかを解説していく。軽快な語り口とともに様々なデータが示されるので、社会学に馴染みの薄い人手もも楽しく読み進めることができる。
日本で生活していても目に付く機会の少ない子どもの貧困の現実に迫る一冊。想像を超える貧困の悲惨さに、読み進めるのが辛いほどである。解決策、改善の兆しの見えない、しかし、目を背けてはいけない問題が描き出されている。レビューはこちら。