青木薫のサイエンス通信

科学者は自らの学説に殉じるべきか

青木 薫2013年6月2日

来年はガリレオ・ガリレイの生誕450周年ということで、それに合わせていくつもの研究書が出版されているようです。そういう研究書の多くは、新たに公開されたバチカンの異端審問関連資料を使ったもの。

とはいえ、その資料から明らかになったのは、まあ、あの時代、あの状況で、ガリレオにああいう態度(ポリティカルにあまり賢明とは言えない態度)を取られたら、ローマ・カトリック教会としては、ああするしかなかったよね……という、「ガリレオがもう少し賢く立ち回ってくれていたら、あんな無体なことはせずにすんだのに」的な教会サイドの言い分に共感したくなりそうな状況だったもようです。

しかし、それを言ったらおしまいなんですけどね。所詮は、「大人しく言うことを聞けば、手荒なことはしない」という脅しなわけで……。あの裁判が複雑微妙できわめて政治的だったことは間違いないにせよ、「教会は拷問で脅してガリレオに自説撤回を強いた」という点は動きません。そこでニューヨーカーの記事も、裁判の成り行きに関する詳細にはあまり立ち入らず、この機会にガリレオとガリレオ裁判の意味を、あらためてざっくり押さえておこうという、広めのパースペクティブをとっています。

ガリレオはたまたまシェイクスピアと同い年なのですが(したがって来年はシェークスピア生誕450年でもある)、残念ながらシェークスピアはガリレオを題材とした戯曲は残していません。まあ、同時代のヤバイ人物(教会と対立したガリレオ)を題材にするのはやめておいたほうがいいと、わたしでも思いますものね。しかし、シェークスピアは書かなかったけれど、ガリレオの死後300年を経て、ベルトルト・ブレヒトが重厚な戯曲『ガリレイの生涯』を書きます。そこに描かれたガリレオが、今日のガリレオ像に少なからぬ影響を及ぼしているもようです。

ブレヒトは、アメリカ亡命中に非米活動委員会(いわゆる赤狩り)の審問を受け、「私の作品は純粋に文学的なものであって、政治的なものとはいっさい関係がありません」という、まるでガリレオの自説撤回文書のようなことを言っていますし、審問の翌日には、『ガリレイの生涯』の初演中だったにもかかわらず、アメリカを脱出してヨーロッパに渡ります。晩年はスターリン主義の東独のかざりものとして過ごし、その点でも、アルチェトリに軟禁され、従順に教会に従って過ごすガリレオに重なります。

そんなわけで、演劇の観客(や戯曲の読者)は、どうしても作品中のガリレオとブレヒトを重ねてしまいがちでしょう(私自身、あちこちでどうしても両者を重ねてしまいました)。が、多分、ブレヒトの思惑はそれほど単純ではない。また、観客はついつい、主人公ガリレオに感情移入しがちかもしれませんが、そのような感情移入に頼った演劇は、ブレヒトの批判するところでもありました。とにかく、ブレヒトのガリレオに対する感情は複雑かつアンビヴァレントで、当然ながらその作品は、いろいろ考えさせられる重層的なものになっています。

しかしそのうえで言うのですが、ブレヒトのガリレオ像を理解する鍵は、「科学にとって必要不可欠な個人などいない」というブレヒトの持論ではないでしょうかつまり、「『新科学対話』(これをガリレオは軟禁中に書いていた)を世に残すために、彼は権力に屈服したのだ」という言い訳は通用しない、とブレヒトは考えていただろうということです。

それが作品中にはっきりと表れているのは、終幕。自説を撤回したガリレオに失望して彼のもとを去った若い弟子アンドレアが、アルチェトリの師を訪れるくだりです。ガリレオがこっそりと『新科学対話』を執筆していたことを知ったアンドレアは、「こうして先生は、自分にしか書けない科学的著作をお書きになる時を稼がれたのです。あなたが火刑台上の光に包まれて最後を遂げておられたら、他のやつら[教会=権力]は勝利者になっていたことでしょう」と言います。それに対してガリレオは、「やつらは現に勝利者じゃないか。それにひとりの男にしか書けないような科学的著作なんてありはしないよ」と言うのです。つまりブレヒトは、権力に屈服したことは正当化されないということを、ガリレオ自身の口から言わせているわけです。[セリフの引用は岩波文庫『ガリレイの生涯』岩渕達治訳より]

ブレヒトは、広島長崎に核兵器が投下されてから作品に手を加え、観客がガリレオに感情移入しそうな部分(したがってガリレイに対して好意的になりそうな部分)をバッサリ切り取り、さらにガリレオに対する批判色を強めています。結局、ブレヒトはガリレオに、権力と戦って死んでもらいたかったのかもしれません。

しかしニューヨーカーの筆者は、ブレヒトの考えはどうであれ、科学者は学説を擁護して死んだりしなくてもいいよ、と言っています。殉教は信仰の証にはなっても、科学理論の証にはならないのだから。科学理論は人の死によって証明されるのではなく、実験と観察によって証明されるべきもの。脅迫に屈伏して二枚舌を使っても、科学上の仕事の重要性には何の関係もない、と。

科学は英雄的頭脳を必要とするが、英雄的なモラルを必要とはしない。

しかしこのことは(宗教との対立という文脈ではなく)、今日的な科学者の社会的責任といった文脈からすれば、がらりと違ったニュアンスを帯びる大きなテーマになるわけですが、それはまた別のお話ということで。

ガリレイの生涯 (岩波文庫)

作者:ベルトルト ブレヒト
出版社:岩波書店
発売日:1979-11-16
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