「解説」から読む本

『世界の技術を支配する ベル研究所の興亡』世紀のアイディア工場

成毛 眞2013年6月30日
世界の技術を支配する ベル研究所の興亡

作者:ジョン・ガートナー
出版社:文藝春秋
発売日:2013-06-28
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iPhoneやグーグル検索、フェイスブックは果たしてイノベーションと言えるのであろうか。もしそれらが情報時代に不可欠ではあるが、単なる優れたツールでしかなかったとしたら、本物のイノベーションとはなんなのだろうか。そしてイノベーションを意図的に生み出すための条件や方法論とは一体どんなものなのだろう。

本書はこれら問題に真正面から問いかけをしながら、イノベーションなどに興味にない読者であっても、知的冒険譚として心躍らせて読むことができる素晴らしい1冊に仕上がっている。1983年からニューヨーク・タイムズで書評欄を担当。その辛辣な批評で有名な文芸批評家の角谷美智子氏が2012のベスト10に選んだほどだから、たしかに読みものとしても傑出しているといってよいだろう。

1925年、のちに世界最大の会社となったAT&Tは、創業者の名前をとってベル研究所(略称ベル研)を開設した。以来、ベル研は7組13人ものノーベル賞受賞者を輩出し、企業内研究所としてはもっとも尊敬されるべき研究所として通信・情報などの分野に君臨した。

ベル研はトランジスタ、衛星通信、情報理論、光ファイバーなど、どれ一つが欠けても現代生活そのものが成立しないような基礎技術を開発し続けた。iPhoneやグーグル検索はもちろん、携帯電話や地上波デジタルテレビなどはその応用技術である。iPhoneやグーグル検索はコンシューマ製品におけるイノベーションであり、ベル研のそれはプラットフォーム技術のイノベーションといいかえることができる。

政府公認の独占企業だったAT&Tの傘下にあったベル研の宿命は、その研究成果を格安の特許料で一律に使用権許諾しなければならなかったことである。そのため研究者の名前で取得した特許であっても、研究者には特許料収入が入ることはなかった。であるにも関わらず、人類の生活をまさしく一変させる理論や技術が次々と開発されたことは、今では奇跡とも言ってよいだろう。

その背景には物理学者や数学者、化学者や応用技術者など異分野の研究者が積極的に情報交換することを奨励するという経営思想があったらしい。研究所の建物も注意深く設計されており、研究室と事務用オフィスが別のフロアにつくられ、人々がすれ違うことを強要されるような長い廊下で有名だったのだという。

まさしくベル研は原書のタイトルどおり、計画的に建設された「アイディア工場」だったのだ。いっぽうで現在アップルやフェイスブックの本社があるシリコンバレーは「アイディアの集積地」だ。しかし、現代では経営学者がイノベーション・ハブとよぶこの地もベル研から無縁ではいられない。

1955年、ベル研を辞めた接合型トランジスタの発明者、ウィリアム・ショックレーがショックレー半導体研究所をマウンテンビューに設立した。母親の実家があったからである。しかし、上司としては信頼感や経営能力に劣るショックレーのもとを技術者たちは次々と去り、インテルなどの最先端企業をこの地で創業したのだ。

ショックレーだけでなく、登場する人々はじつに個性的であり魅力的だ。すべての情報はビットで測ることができる。いまではあたり前になった音声も映画もデジタルで送受信できるという理論はクロード・シャノンが独自に創りだしたものだ。シャノンはさらに誤り訂正符号というデジタル化にはなくてはならない理論も創りだした。たった1人でまったく新しい学問領域と重要な理論のほとんどを作りだしてしまったのだ。そのシャノンの趣味は一輪車やジャグリング、おもちゃ作りだったという。そして情報理論も彼の子供のような好奇心の対象の一つでしかなかったようなのだ。

ちなみにシャノンの研究領域はノーベル賞の授賞対象外であった。まったく新しい学問だったからだ。賞とは無縁であったシャノンに対して1985年、第1回京都賞によってその功績を称えることができたことは日本人として誇りに思うことの一つである。

最後になるが、本書は日本におけるイノベーション研究の基礎的な資料としても、ながく利用されるであろう。巻末の「情報源」「参考文献」「注記」など、原書のままにすべてを訳出しているため、第一級の資料に仕上がっているのだ。それどころか、各章の見出しと紹介文、パラグラフの小見出しなど、原書にはないものを付け加えていながら、原書を上回る作品に仕上がっていることは、日本語版読者としてはありがたい限りである。

(単行本解説)