「解説」から読む本

『お洒落名人 ヘミングウェイの流儀』文庫あとがき by 今村楯夫

新潮文庫2013年10月8日
お洒落名人 ヘミングウェイの流儀 (新潮文庫)

作者:今村 楯夫
出版社:新潮社
発売日:2013-09-28
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1921年、春まだ浅き3月中旬、ヘミングウェイはブルックス・ブラザーズで仕立てた真新しいスーツを着て、セントルイスにハドレー・リチャードソンを訪ねた。その6ヶ月後、ふたりは北ミシガンの片田舎のメソジスト教会で結婚式をあげた。

 

このたび新潮文庫に収められることとなった『ヘミングウェイの流儀』のカバー写真はヘミングウェイがハドレーを訪問したときに撮られた1枚である。そのときに受けた印象をハドレーは次のように記している。「美しい青年。すらりとして身のこなしが素敵でした。顔立ちは彫りが深く均整がとれていて、笑うと小さな口は耳の方まで大きくしなやかに広がります」。

 

このときに限らずヘミングウェイは身につけるさまざまなもの、スーツに限らず、帽子から靴にいたるまでこだわり、おしゃれだった。

 

このことはぼんやりとは感じていたが、実は山口淳さんといっしょに仕事を始めてから、それは確信に変わった。ボストンの郊外にあるJFKライブラリーで落ち合い、1週間、山口さんはまるで憑かれたように、ときどき、突然、歓声をあげたり、大きな声で独り言をいいながら、朝から晩までヘミングウェイの写真に次々と目を通していった。

 

3番目の妻となったマーサ・ゲルホーンとハワイで撮った1枚の写真(89頁参照)を差して「これ、ジャックパーセル製のスマイルって呼ばれるスニーカーなんですよ。ほら、つま先に線がはいっているでしょ、まるで笑っているみたいに」と山口さんは説明してくれる。

 

また暖炉の傍らに置かれたトランクが写っている写真(167頁参照)を見つけたときには、喜びは沸騰点に達した。ルイ・ヴィトンの領収書の存在はすでに知っていた山口さんは、その領収書に記されていた現物の写真を発見したのだ。しかも一目見ただけではどこで撮られたかも判然としない、部屋の内部の写真の中にルイ・ヴィトンを見つけるというのは、私にとっては至難の技であるというより、不可能なことだ。写真の余白に記された「1959年、オルドニェス・ランチ」すなわちオルドニェスが所有する牧場で撮影された写真という文字から、山口さんの謎解きはさらに深められる。

 

しかし、この写真はそれだけの発見にとどまらない。

 

薄いカーテンで外の風景はさえぎられ、柔らかな光が部屋に明るく広がり、その左脇には重厚な質感のある遮光カーテンが床まで下がり、木製の雨戸は内側に開かれ壁に添う。暖炉の横には椅子が一脚、その背に脱いだズボン(山口流にいえば「パンツ」)がかけられ、さらにその脇にふたつの小さな鞄に加えて、ルイ・ヴィトンの旅行鞄が置かれている。それは静謐な空間と時間を凝縮して描いた一幅の静物画のようにさまざまな物語を内に秘めている。このころ、ヘミングウェイは闘牛士オルドニェスに付き添うようにスペイン各地の闘牛場を転々と廻っていた。その間にも強度の神経症を患い、スペインを後にニューヨーク経由でアイダホ州ケチャムの自宅に戻ることになるのは、それから2ヶ月後のことである。いや、これ以上の詳しい説明は山口さんに譲ろう。

 

1万枚もある写真をめくりながら、限られた時間で、次々と新発見をしていくことが可能なのは、彼の頭の中にはびっしりとアイテムが刻まれ、それと現物とを照合するための知識と記憶と、それに何よりも貪欲なモノへのこだわりによる。

 

そんな中で、ふたりで最後まで証明できなかったモノがあった。それはヘミングウェイが生前愛用していたと、ほとんど伝説のごとく知られているモレスキン製の黒いハンディなノートである。実際、私も人から2回、「ヘミングウェイ愛用のノートです」と説明を受けてモレスキン製のノートをいただいたことがある。もしヘミングウェイが小説の下書きに使用していたのがモレスキン製であったとするなら、少なくとも1冊でもJFK、あるいはキューバのフィンカ・ビヒア(現在のヘミングウェイ博物館)に保管されているはずだ。そんな思いを抱いて、それぞれのキュレイターにも尋ね、現物の発見に努めたが、ついに証拠となる確かなものを見つけることができなかった。パリ時代にヘミングウェイがカフェで創作に励んでいたころに使われていたノートはポケットに丸めていれることができるような、小学生でも使っていそうな安価で薄いものだ。キューバには残されていないが、それはJFKに数冊、保管されている。

 

というわけで、先の『ヘミングウェイの流儀』に収録された1編「本棚に並んだ黒い手帳」は文庫版では省くことにした。不確かなまま、ヘミングウェイの愛用品としてこのまま残しておくことが不誠実のように思われたからだ。いつか、どこかで証拠が見つかれば再録ということもある、とかすかな期待をもって。

 

本来ならば、文庫版として刊行するにあたり、山口淳さんに相談すべきであるが、その山口さんがこの1月に病に冒され急逝されたため不可能となった。第2弾として、もう1冊、いっしょにヘミングウェイの本を出そうと語り合っていたが、それもできなくなってしまった。ご冥福を祈ります。

 

文庫版にする話は、以前より新潮社の寺島哲也氏から提案されていたが、初版より3年の歳月を経て、それがこのたび可能となった。寺島さんとは『ヘミングウェイと猫と女たち』(新潮選書、1990年)以来の付き合いである。23年の歳月を経て、ふたたび氏といっしょに本が出せることはこの上ない喜びである。日本経済新聞出版社の桜井保幸さんはこのたびの新潮文庫の出版を快く許可され、所持されていた関係資料を提供してくださり、また株式会社BBの社長兼アートディレクターの塚野丞次さんには単行本の出版に際して編集・制作を担当された朝倉和子さん(同じくBB)ともども惜しみなくご協力をいただいた。改めてみなさんに謝意を表したい。

2013年8月 猛暑の中で 今村楯夫(東京女子大学名誉教授)

 

 

 

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