「解説」から読む本

『脱北、逃避行』文庫解説 by 五味 洋治

本の話 WEB2013年10月23日
脱北、逃避行 (文春文庫)

作者:野口 孝行
出版社:文藝春秋
発売日:2013-10-10
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「自由への過酷な旅」の記録

今の世の中に、こんなに危険に満ちた旅があるだろうか。

 

本書に書かれている脱出劇は、二〇〇三年七月に始まった。食糧難などで中国に密かに越境した北朝鮮の人たちは、距離にすると三千キロ以上、ほぼ日本列島を縦断する長い距離を列車でひたすら南に向かっていく。途中で二回ベトナムとカンボジアの国境を越えなければいけないが、最大の難関は、中国国内を無事に通過することだ。

 

脱北者は旅券を持っていない。中国は脱北者を「難民ではなく不法越境者」としており、発見すれば、容赦なく北朝鮮に強制送還する。その後母国では、厳しい処罰が待っている。

 

この人たちをいかに安全に移動させるか。本書の前半の読みどころは、まさにそこだ。

 

ダフ屋と交渉して何とか安い切符を手配し、車内での会話に注意する。日本人風の服を着せ、途中でわざと観光を楽しみ、なんとかカンボジアの首都プノンペンまで連れ出す。

 

次々に現れる危険な状況をかいくぐることができたのは、野口さんがバックパッカーとして四十カ国以上を旅行した経験が生きているのだろう。

 

旅行の途中で、家族とともに北朝鮮に渡った在日朝鮮人の淑子が、北朝鮮での生活について話をする場面がある。

 

もちろん政治的に抑圧され、表現の自由もないが、最も窮屈に感じたのは実は、「選択の自由」がないことだったという。

北朝鮮には喫茶店もないし、放課後友だちと寄り道できるようなところもないでしょう。学校が終われば、農村支援といって、農作業とか用水路の掃除などに駆り出されるのね。だから、北朝鮮での学生生活なんてちっとも楽しくなかったの。(本文126ページ)

北朝鮮が、市民をどう待遇しているかを、端的に言い現している。

 

野口さんが「救出作戦」に従事していた二〇〇三年、私自身、新聞社の特派員として北京で勤務しており、脱北者問題を取材していた。

 

二〇〇二年以降、中国・北京にあるスペイン大使館や、韓国大使館、日本人学校に、門が開いた一瞬のスキを突いたり、壁にはしごをかけて北朝鮮の人たちが逃げ込んだ。亡命を求めるためだった。

 

駆け込みがあると私たちも、現場に駆けつけた。慌てたのだろう。建物を取り囲む鉄条網に、靴や服の一部が引っかかったまま残っていたこともあった。

 

北朝鮮と同じ社会主義国である東ドイツの崩壊は、住民のポーランドへの大量脱出がきっかけとなった。

 

中国は北朝鮮と一千三百キロの長い国境を接している。難民が押し寄せればとても防ぎ切れず、北朝鮮は内部から崩壊する危険性がある。中国と韓国を分ける「緩衝地帯」である北朝鮮が消滅すれば、在韓米軍の部隊が中国国境付近に配備されることも予想される。

 

中国にとって「悪夢」に近い事態に違いない。このため中国政府は、国内の外国公館の周辺に、高い柵を二重、三重に張り、脱北者の摘発を徹底した。

 

盗聴、尾行だけでなく、協力者を脱北者グループに潜り込ませて、関係者を一網打尽にすることもある。もちろん人権無視の批判などお構いなしだ。北朝鮮も金正恩体制になってから、脱北行為への監視をいっそう厳しくしているという。

 

それでも「自由を求める過酷な旅」は後を絶たない。さまざまなルートを経て韓国に入国した脱北者は約二万五千人、日本にも二百人余りが暮らしている。

 

一方で、新たな動きも出てきた。

 

国連に、北朝鮮の人権侵害を調べる調査委員会が設置され、韓国や日本で拉致被害者や脱北者への聞き取り調査を始めたのだ。

 

人権侵害の実例が、人権委を通じて国際社会に公表されれば、北朝鮮や中国への大きな圧力になることだろう。

 

本書に戻ろう。

 

脱北者を自由な国に送り届けることに成功した野口さんは、二回目の救出作業の途中、公安に身柄を拘束され、皮肉にも「選択の自由」を極度に制限される「看守所」(日本では拘置所に相当)生活を余儀なくされる。

 

脱北者の救出を行い、中国内で拘束された日本人は過去にもいたが、いずれも数週間で釈放され、帰国していた。

 

野口さんの場合、拘束は二百四十三日にも及んだ。本書にもあるとおり、地元の弁護士を付け、当局に罰金名目で金を払っていれば釈放されていたかもしれない。

 

気の毒な体験だったが、看守所という狭くて単調な場所に入ったことで、人間観察力が冴えたようだ。本書の後半部分は、中国社会をあぶり出す出色のルポに仕上がっている。

 

看守所の監房は、鉄格子で囲まれた十畳ほどの広さで、プライバシーのかけらもない。

 

収容されていた中国人はさまざまだった。中国と敵対しているベトナムに情報を流してスパイ罪に問われたり、百二十六匹の猿を違法に捕獲し、食用として売り飛ばそうとして捕まった男もいた。

 

中には「今度、北韓人(北朝鮮人のこと)を連れてくる時にはオレに連絡しろ、必ず助けてやる」と商談を始める人さえいた。中国人のたくましさには、あきれるというより、底知れないパワーを感じる。

 

そのうち野口さんは、看守所の中で特別待遇を受けている人たちがいることに気がつく。「シゲ」と呼ばれる男性は、地元の共産党幹部で大型収賄の容疑で逮捕されたが、温水シャワーを浴びる特権があり、食事も外でできる。高級な果物や食事を持ち込むことも認められていた。「共産党での地位と金さえあれば、なんでもできる」という、中国の現実は、こんな場所にまで反映していた。

 

二〇〇四年八月九日になって、野口さんはようやく釈放され、日本に戻った。

 

それから約六年後の二〇一〇年、本書が出版された。脱北支援の実際が克明に記されており、驚きの連続だった。

 

アルバイトで貯めた金で中国に渡り、危険を顧みずに脱北者の救出に当たった野口さんに、私は強い関心を抱いた。本人に会いに行き、本を紹介する新聞記事を私の手で書かせてもらった。

 

私と野口さんは、同じ埼玉県に住み、自宅も遠くない。そのため今も時々会って、話を伺っている。今は編集者、ライターとなって仕事をしているが、旅行作家になる夢を持っているという。

 

この本は、確かに野口さんにしか書けなかった「旅行記」といえるだろう。脱北者の辛くて長い旅は早く終わって欲しいが、野口さんには、いつか新しい旅に出てもらいたいと願っている。

(五味 洋治・東京新聞編集委員)

  

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