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『英国二重スパイ・システム』ヒトラーの頭の中に入り込め!!

鰐部 祥平2013年11月18日
英国二重スパイ・システム - ノルマンディー上陸を支えた欺瞞作戦

作者:ベン・マッキンタイアー
出版社:中央公論新社
発売日:2013-10-09
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アプヴェーアという組織がかつて存在した。ドイツ軍により1921年から1944年まで運営されていた諜報機関である。にわかには信じられないのだが、このアプヴェーアが第二次世界大戦中、イギリスに潜入させたスパイの全てが、イギリスの防諜機関MI5の手に落ちていたという。しかも、刑務所に拘禁されるか処刑されたもの以外は、二重スパイとして活動していたというのだ。つまり、イギリス国内で活動していたドイツ側のスパイは、全てイギリス側のコントロール下にあったということだ。

 

この二重スパイシステムは戦争終結まで、ドイツ側を完全に騙しぬいた。彼らはヒトラーの頭の中に入り込み、イギリス側が与えたいと思っている考えを植え付けることに成功していたというのだ。

 

この二重スパイシステム(ダブルクロスシステム)の運営を任されていたのがMI5に創設されたB1Aという組織。責任者はター・ロバートソン。30歳という若さで、魑魅魍魎が蠢く二重スパイシステムの管理者に抜擢された。彼自身が選んだ、チームメンバーは軍や、諜報機関という観点からみると、実に風変りな面々だ。サーカスの興行主、タイムズ紙の所有者アスター卿の息、弁護士に大学の教授、美術史の専門家など、どのメンバーを見てもスパイの素人なのだ。

 

ターがB1Aを運営し始めた時点で、すでにドイツ側の暗号の全てが破られており、どのスパイがどれほどドイツ軍に信頼されているかという情報すら、イギリス側には筒抜けであったという。「ナチ党員よりナチ的」と言われ、ヒトラーの信頼が厚かった日本大使、大島浩が東京に送る電報から、ヒトラーがどれだけ二重スパイの情報に影響を受けていたかも、徹底的に分析されていた。戦時下のいう状況の中で、日本とドイツがどれほど甘い認識を持って、ことにあたっていたのかが窺われるエピソードだ。

 

次第に自信を深めていくB1Aはある事に気づく。我々はドイツを自分たちの意のままに操れるのではないかと。それは、防諜から始まったシステムが、欺瞞作戦でドイツ軍に物理的なダメージをあたえるという、攻撃的なシステムへと生まれ変わる道が開かれた事を意味する。その結果、彼らは第二次世界大戦の天王山ともいえる、ノルマンディー上陸作戦を成功させるため史上類を見ないほどの大欺瞞作戦を展開することになる。

 

二重スパイ達は気まぐれで、いかがわしい人々だが不思議なほど自信に満ち溢れ、人間的魅力に富んだ面を持つ。セルビア人の青年実業家ポポフは、名うてのプレイボーイ。贅沢と女性をこよなく愛する。愛国心旺盛な亡命ポーランド人将校、チェルニャフスキは三重スパイだ。熱烈な愛国心のため幾度か大きなトラブル起こす。文学を愛するスペイン人養鶏業者、ファン・プホルは異常なまでの情熱で精緻な「架空スパイ網」を作り上げる。社交界の華でギャンブル好き、借金まみれのレズビアン女性エルビラ。

 

また、面白いのは金にまつわるエピソードだ。アプヴェーア側はイギリス国内のスパイに資金を提供するのに常に苦戦していた。しかし、スパイが資金不足で活動するのはおかしい。もし、資金不足のスパイが精力的に活動していれば、別の誰かに飼われていることになる。MI5もドイツが上手くイギリス当局を騙し資金を送れないことに、困っていた。

 

ポポフは実業家として、イギリス当局の目を眩ませながら、大量の資金をイギリスに送金させるシステムを作り出す。このシステムのおかげで、1940年から1945年の間にドイツから提供された資金は当時の額で8万3千ポンド。これは現在の価値で450万ポンド。日本円では7億円に相当する。ドイツはこれだけの金額を、そうとは知らず敵であるMI5宛に送金していたのだ。まるで国家規模での振り込め詐欺のようだ。しかし、上には上がいる。これだけ巧妙なB1Aの中にソビエト連邦のスパイが紛れ込んでいたのだ。そして、誰一人その存在に気が付いていなかったという。

 

ポポフのドイツ側の担当将校たちはポポフのための資金をピンハネし、酒池肉林の生活を送っていた。ポポフはそのことを機敏に感じ取り、持ち前の交渉力で担当将校たちよりも、優位な立場でアプヴェーアと交渉できるようになる。ポポフの情報は遊び暮らすアプヴェーア将校にとって、仕事をしているというアリバイであり、贅沢な暮らしを担保する金づるなのだ。大なり小なり、アプヴェーアの末端には汚職が蔓延していたようだ。また、アプヴェーアの部長カナリス大将と幹部連中は反ヒトラー的な思想の持ち主であり、ヒムラー率いるSSと水面下で権力闘争を繰り広げていた。

 

負けが込んでくると、外敵に使うはずの暴力を内部に使い始めるという現象は、力を持った組織が滅びるときに、往々にして見せる行動だ。外敵により力を弱めたSSはその権力を維持するために、国内の粛清を始める。カナリス大将を初め、多くのアプヴェーア将校も粛清の嵐にさらされることになる。このあたりは、滅びゆく巨大な権力機構に属する者たちの、決して避けては通れない運命の熾烈さを改めて認識させられる。

 

昨今、日本国内では憲法改正、集団的自衛権の問題、特定秘密保護法などの議論が喧しい。しかし、どのようなシステムを構築しようと、結局はそれを運用する人間こそが最も重要なファクターなのだという事を本書が教えてくれる。戦争のなかでもっとも大きなダメージを受けるのは真実だと私は思う。戦争中の人々は、ときとして現実を無視した楽観主義や悲観主義にとらわれ、真実に目を向けようとしない。どのような真実でも真向から受け止め、危機感を持ち現実的な判断を下していける者のみが危機を乗り切れる。

 

戦前、ドイツも日本も強大な軍隊を保有していた。しかし、情報に対する感度の鈍さ、自分たちの見たい現実しか見ようとしない姿勢、ある種の思考停止状態が蔓延していたように思える。なぜ先の大戦では連合国が勝利し、枢軸国と呼ばれたドイツや日本が敗れたのか。もう一度、歴史を見つめなおす必要があるのではないだろうか。

 

1000兆円を超える財政赤字を抱えた日本の政治家や官僚に、本当に当事者意識が存在し、真剣に物事を処理する意志があるとはどうしても思えない。アプヴェーアの将校たちの姿に、現在の日本の政治家や官僚に似ているものを感じてしまうのは私だけであろうか。最後に本書は戦争という時代、大いなる冒険心を刺激され、スパイという特殊な道へと踏み込んでいく若い男女の物語として読んでも純粋に楽しめる作品である事を一言添えておこう。

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証言 陸軍中野学校 卒業生たちの追想

作者:斎藤充功
出版社:バジリコ
発売日:2013-07-30
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