おすすめ本レビュー

小ネタ付き ひとり通史の おもしろさ 『天才と異才の日本科学史』

仲野 徹2013年11月24日
天才と異才の日本科学史: 開国からノーベル賞まで、150年の軌跡

作者:後藤 秀機
出版社:ミネルヴァ書房
発売日:2013-09-30
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かの歴史家アーノルド・トインビーは、単独で通史を書くことの意義を語っている。というか、語っている、という話を聞いたことがある。通史となると、膨大な資料からなるのであるから、詳しさや正しさにおいて、一人で書くと不十分にならざるをえないかもしれない。それでも、通史にはおもしろさがある。

この本ほど、そのおもしろさが抜きんでている本はそうないだろう。まず、登場人物のとりあげ方である。近代的な意味での日本の科学史となると、当然、明治時代に始まるということになる。そこで、冒頭、いきなり出てくるのは福沢諭吉だ。つぎが夏目漱石。もちろん漱石の科学についてではなくて、漱石とロンドンで親しく過ごした池田菊苗と、第五高等学校時代の教え子、寺田寅彦の話へと移っていく。これだけで著者の抜群のセンスがわかろうというものだ。わからん人にはわからんだろうが…。

そして第一章の目玉は北里柴三郎。日本が産んだ最高の生物学者、いや、科学者といってもいいかもしれない。エミール・フォン・ベーリングとともに北里が第一回のノーベル医学・生理学賞をもし受賞していたら、日本の科学は大きくかわっていたはずだ。『抗毒素』のオリジナリティーは完全に北里のものであっただけに残念でならない。

第一章のトリは高峰譲吉である。ジアスターゼの発見、と、たぶんアドレナリンの発見、そしてジアスターゼを売るために三共製薬を作った、明治時代バイオベンチャーの雄とも呼ぶべき人だ。漱石の友人、池田菊苗の名はあまり知られていないが、『うま味』の研究から味の素を作ったという、これも莫大な利益につながる発見をなしとげた化学者だ。

つぎの第二章は、脚気をめぐる、西洋食をとりいれた海軍の高木兼寛の卓見と、白米食を続けることにより日露戦争で数多くの脚気患者をつくってしまった陸軍の森林太郎のエピソード。そして、米ぬかから抗脚気因子としてオリザニンを発見した鈴木梅太郎。鈴木は残念ながら『ビタミン』という概念にいたらなかったが、後に、オリザニンはビタミンB1と同一の物質であることがわかる。

第一部最後の第三章は、なんといっても男・山川健次郎。『八重の桜』でも、ちらっと出てきたので覚えておられる方もおられるかもしれないが、会津若松の出身、後に、東大総長を務めた物理学者である。山川は、白虎隊で死ねなかったことを恥じ、質素に清廉潔白に、そして、筋を通して生きた。その弟子の一人が、我らが大阪大学初代総長の長岡半太郎だ。

とまぁ、第一部だけでもお腹がいっぱいになるくらいである。ここにあげたそれぞれの人の伝記はどれも面白いのだから、無理もない。第二部以後、すべてを紹介したらキリがないのであるが、物理の有名どころだけでも、サイクロトロンの仁科芳雄、八木アンテナの八木秀次、同級生同士だったノーベル賞学者湯川秀樹朝永振一郎、そして、南部陽一郎らへと続いていく。

通史というのは、私的興味が色濃く表れるのも特徴だろう。この本、医学・生物学関係でその色合いがつよい。言い替えると、それほどは知られていない研究者のすばらしいエピソードをとりあげている。ウニ発生の研究者、團勝麿・ジーン夫妻や慶応大学医学部の生理学者加藤元一などがその例だ。

それだけではない。科学のダークサイドにも目を配っている。ビキニ環礁での水爆実験に被爆した第五福竜丸や福島第一原発の事故の関係者についての記述。そして、関東軍による満州での人体実験。本意ならずも731部隊に参加させられた岡本啓の話など、まったく知らなかったが、戦争に引き裂かれた一人の医師の記録として涙なくして読めはしない。

もうひとつ、この本が抜群の異彩をはなっているのは、紹介される『小ネタ』のおもしろさである。たとえば鈴木梅太郎。当時、脚気病原菌説が東大を中心に唱えられており、農芸化学の鈴木梅太郎などに抗脚気因子など見つけることができるはずがないと四面楚歌だった。しかし、その鈴木に味方したのが、高木兼寛、北里柴三郎、池田菊苗であったという。名人、名人を知る、というところだ。

全然本筋とは関係ないが、ダグラス・マッカーサーが、乃木希典とステッセルの水師営の会見に、観戦武官の父親の随行としてついていってた、とか読むと、おぉ、そうなのか、とうれしくなってしまうのは私だけだろうか。

仁科芳雄についても、仁科を東大の電気工学で指導したのは、与謝野晶子の兄・鳳(ほう)秀太郎であったとか、仁科のお墓に揮毫したのは吉田茂で、弟子の朝永振一郎の遺骨が隣に納められていて、武見太郎によって『朝永振一郎 師とともに眠る』と記してあるとか、まぁ、あまり関係ないけど、へぇ、と言いたくなるようなことが書いてあるのだ。

加藤元一のところで紹介されているが、昔は、国際学会で、実際に実験を披瀝するということもおこなわれていたそうだ。シベリア鉄道で一ヶ月かけてストックホルムまで行き、一ヶ月かけて実験の準備をおこなった加藤。その当日は身を清め、祖国と明治神宮に向かって手をあわせた。『ダイセイコウ アンシンアレ』と家族に電報をうった時の気持ちはいかばかりだったろう。

とまぁ、こういう小ネタというか枝葉話も単著の通史ならではだ。たいがい伝記好きの私であるが、多くの人の伝記をオムニバスのようにまとめてこれだけ面白くまとめた本など読んだことはない。科学史家にはとてもできない芸当だ。著者は応用物理から原子核工学を学び、神経生理学を専攻したサイエンスライター。その軽やかな経歴がこの本を作る源になっているのかと思う。堅苦しくなく、日本の科学の来し方をすっきり学べる超おすすめの一冊である。

<追記> 産経新聞に池内了先生の書評がでていました。相手にとって不足はありません。向こうにとっては不足でしょうが… 僭越ながら、読み比べていただくと楽しいかも。物理学者と生命科学者の視点の違いはあるけれど、ピックアップしてる科学者の名前はほとんど同じです。


新装版 白い航跡(上) (講談社文庫)

作者:吉村 昭
出版社:講談社
発売日:2009-12-15
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吉村昭が描く高木兼寛。面白くないわけがない。


化学者池田菊苗―漱石・旨味・ドイツ (科学のとびら)

作者:広田 鋼蔵
出版社:東京化学同人
発売日:1994-06
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菊苗の立派さや漱石とのおつきあいがよくわかる。


ええいっ『八重の桜』のいま再販せずにいつするというのだっ!