文庫本を読むとき、なぜか解説を先に読む人が多いという。だから、この解説も、これからこの本に「挑戦」しよう、という読者を念頭に置いて書くことにした。
すでに本を読んでしまった人には、一部、話のくりかえしになるかもしれないが、どうか、あしからず。
娘が3歳なので、ウチには一杯(折れた)クレヨンがある。この本の解説を書かせてもらうことになり、久しぶりに塗り絵をやってみた。いい歳して、子供の塗り絵なんぞやりながら、僕は、改めてこの問題の難しさを実感した。
「四色問題」とは「地図を塗るのに最低何色あればいいか」という問題だ。一見単純なように見えて、実は、奥が深い(数学の問題は、単純であればあるほど、証明が難しい難問であることが多い!)。
数学用語としての「地図」という言葉は、「あらゆる種類の一般的な地図」という意味をもっていて、現実の地図である必要はない。難しくいうと「グラフ理論」という分野の問題なのだ。
で、「四色問題」とは、ようするに、将来、戦争や政変などによって、世界地図がどのように塗り替えられようとも、その地図を塗り分けるのに何本のクレヨンが必要になるか、という問題である。
興味深いことに、実際に地図を製作している人々は、ほとんど、数学的な意味での「四色問題」など意識していないのだそうだ。あくまでも純粋数学の問題なのである。
ええと、いま「問題」と言ってしまったが、正確には「四色定理」と言うべきかもしれない。なぜなら、数学の問題は、未解決のうちは「問題」とか「予想」と呼ぶが、いったん解決されれば「定理」に昇格するからだ。しかし、四色問題は、あまりに「問題」であった時期が長かったせいで、いまだに定理ではなく「問題」と呼ぶ人が多い。それほどの難問だった、と言う見方もできる。
ところで、本書は、単なる理系向けの数学書ではない。
この本には2本の大きな柱がある。
1本目は、数式を交えた四色問題の数学的な解説。2本目は、四色問題に挑戦し、挫折して行った多くの数学者たちの「夢」の歴史 。
たとえば、
F−E+V=2
という「オイラーの公式」(Fは面、Eは辺、Vは頂点の数)が出てくるかと思えば、
「この定理はまだ証明されていないが、その理由は、挑戦したのが3流数学者ばかりであるからだ」
という刺激的な言葉に遭遇する。これは、公衆の面前で四色問題の証明に取りかかったミンコフスキーという大学者が、数週間も格闘したあと、
「わたしの四色定理の証明も間違っていた」
と尻尾を巻いて退散した話なのだ。
こんな逸話もある。
パーシー・ジョン・ヘイウッドという数学者はクリスマスの日にしか時計を合わせなかったそうだ。なぜか?
時計が狂うペースを心得ていた彼は、時刻を知る必要があるときには、いちいち暗算をしていたのである。伝えられているところによると、あるとき同僚に時刻を尋ねられた彼は、「この時計は、2時間進んでいるのではなくて、10時間遅れているのだ」と答えたという。
面白い、実に面白い。キッカイな数学者たちのキテレツな性癖。もう落語顔負けの痛快さだ。
本の終盤になると、最終的に四色問題を解いたヴォルフガング・ハーケンとケネス・アッペルの最後の格闘やライバルたちとの競争が綴られる。ハーケンとアッペルの証明は、コンピュータを駆使して千時間以上もの計算が必要だったため、世界中に賛否両論の渦を巻き起こした。人間様がチェックできない計算など、はたして数学の証明たりうるだろうか?
この哲学的ともいえる問題については、僕なら、逆にこう問いかけたい。
「コンピュータが高速になって計算時間がたった1分だったら誰も文句など言わないのではないか?」
いや、四色問題の証明と同様、その哲学的な意味合いも、さほど単純ではあるまい。
紙と鉛筆による証明とコンピュータを駆使した証明の違いは、各ステップごとに証明を「追う」ことができるかどうかにある……と思われている。つまり、紙に書かれた、文字と数式の証明ならば、数学者たちが厳密にチェックできるのに対して、コンピュータが何をやったかはチェックできない、という風潮が強いのだ。ハーケンとアッペルの証明の場合、たしかに、証明が出た当初は、コンピュータ・プログラムが複雑すぎて、懐疑的な目で見られていた。しかし、その後、より簡潔なコンピュータ・プログラムによる「追試」が登場し、次第に信頼度が上がり、今では彼らの証明を疑う数学者はほとんどいない。
コンピュータ・プログラムも、しょせんは人間が書くものである以上、プログラミングの技能をもった数学者がチェックすればいいだけの話だったのだ。実際、紙と鉛筆を用いて書かれた証明も、複雑すぎて、ごく限られた数学者にしかチェックできない、という場合だってある(たとえば、有名なポアンカレ予想や、最近話題のABC予想など)。
四色問題は、数学者の「証明」が、長い数学の歴史において、質的な飛躍を遂げた、という意味でも注目に値する。いまだに紙と鉛筆だけで数学をやる数学者も多いが、若手の数学者たちは、コンピュータによる証明にさほど違和感を抱いていないように見える。乗り物の馬車が自動車に変わるのと同じように、数学の証明法もテクノロジーの進歩によって様変わりする。
僕が住んでいる横浜駅周辺は、桜木町と1駅離れているのだが、奇妙なことに、一角だけ桜木町の住所が存在する。まるで飛び地みたいなのだ。
実は、四色問題において、「飛び地も本国と同じ色で塗ること」としてしまうと、四色では足りないことがわかっている。数学の問題としては、だから、「飛び地は別の色でもかまわない」という条件を付け加える必要があるのだ(まあ、現実世界でも、飛び地が独立してしまうことがあるわけで……)。
ところで、ふつうに「四色問題」と言った場合、われわれがふつうに使っている2次元(=平面)の地図の色の塗り分けを指す。
面白いのは、ルービック・キューブみたいに立体(=3次元)の世界の色分けを考えると、四色では足りず、地図の形によっては、無限に多くの色が必要になってしまうことだ。これは、3次元だけでなく、それ以上の次元でも同様である。
なんで、そんな架空の高次元の地図を考えるのかと、不思議に思われるかもしれないが、もともと数学ってェ奴は、具体的で身近な問題に端を発し、徐々に抽象度が高まっていき、しまいには一般人には意味不明の領域へと突入するものなのだ。数学者たちは、次元を変えたり、条件を変えたりして、次々と関連問題を「発明」する。
数学の問題に終わりなんぞない。一応、四色問題そのものはハーケンとアッペルによって解決されたものの、その周辺には、いまだに未解決の難問がゴロゴロしている。
最後に、この本の「翻訳」について一言。
文学書では、たとえば内藤濯訳の『星の王子さま』や堀口大學訳の『夜間飛行』みたいに名訳が広く認知されている。ところが、科学書の場合、表現など二の次と思われているのか、いくら名訳でも、誰も気づかないことがほとんどだ。
ここでハッキリ書いておくが、科学書の翻訳においても、原書よりわかりやすく、味わい深い翻訳もあれば、逆に、意味不明の悪訳もある。
で、この本の場合、それなりに難しい数学の話題が続くにもかかわらず、随所に翻訳の工夫の跡が見られ、とてもわかりやすくなっている。隠れた名訳とはこのことだ。
というわけで、どうか、数学の面白さに集中して、読書を楽しんでいただきたい。
(2013年10月、サイエンスライター)
(編集部注 この解説は「波」2004年12月号掲載の「クレヨンで数学を ロビン・ウィルソン『四色問題』」に加筆したものです)
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