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最高裁中枢を知る元エリート裁判官はなぜ司法に〝絶望〟したのか? ー 『絶望の裁判所』著者・瀬木比呂志氏インタビュー第2弾

現代ビジネス2014年2月18日

本日(2月18日)講談社現代新書より、裁判官たちの精神の荒廃と堕落を描いた『絶望の裁判所』が刊行されます。外部には知られることのない「法服の王国」で、現在何が起きているのか。最高裁中枢の暗部を知る元裁判官 瀬木比呂志氏(明治大学法科大学院専任教授)への待望のインタビュー第2弾!(インタビュー第1弾はこちら

絶望の裁判所 (講談社現代新書)

作者:瀬木 比呂志
出版社:講談社
発売日:2014-02-19
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--先日のインタビュー記事公開直後(現代ビジネスでは1月28日掲載)、予約段階であるにもかかわらず注文が相次ぎ、Amazonの「本」総合売上ランキングで、一時は本書が70位台になりました。人々の本書に対する関心が非常に高いことが読み取れますが、このあたりをどのように自己分析されますか?

瀬木:法律家の世界については、僕の場合、弁護士を中心に、学者なども含め、常に興味をもって下さっている固定読者が一定数ありますので、その人たちが核になったということは、あるのかもしれません。ただ、それだけでは、先のような順位はありえないでしょうね。一般読者が興味をもって下さったということでしょうから、うれしいと思います。

--好意的な反応が多いのですが、一部には、「かつて所属していた組織について、問題はあるにせよ批判するのはどうか」という反応もありました。このような反応についてどのようにお考えになりますか?

瀬木:そうですね。そういう考え方もあるだろうと思います。

しかし、そのような考え方、感じ方については、僕は、あとがきに引用したボブ・ディランの言葉で間接的に答えたつもりです。

「つまり我々の誰からも声が上がらなかったら、何も起こらず、〔人々の〕期待を裏切る結果になってしまう。特に問題なのは、権力を持った者の沈黙による『裏切り』。彼らは、何が実際起きているかを見ることさえ拒否している」というものです。

裁判所と裁判官の抱えるさまざまな問題について、重層的、構造的な分析を行うには、裁判官としての経験と学者の視点の双方、また社会科学一般に関する一定の素養も必要ですが、そうしたいくつかの条件を満足する人間は、おそらく、僕のほかにはあまりいないでしょう。そうであれば、「所属していた組織を批判すべきではない」という倫理観と、ディランのいう「沈黙によって人々を裏切るべきではない」という倫理観の、どちらを優先すべきかという問題になります。僕は、一人の学者として、後者を優先すべきだと思っています。

『絶望の裁判所』著者 瀬木比呂志氏(明治大学法科大学院専任教授)

 --第1章にもあるとおり、田中耕太郎第二代最高裁長官が、米軍基地拡張反対運動のデモ隊が境界柵を壊し数メートル基地内に立ち入ったとして起訴されたいわゆる砂川事件大法廷判決が出る前に、その見込み、内容を駐日米大使、公使にリークしていたという事件が、昨年、紙面をにぎわせました。「法の番人」たる裁判官の長である人間とは思えない行為ですが、このようなことは現在でも行われているのでしょうか? また、田中長官は、なぜこのような問題の大きい行為を行ったのでしょうか?

瀬木:規模や態様は異なるとしても、これに類したことが現在でも行われている可能性は否定できません。詳しくは第1章等に書いていますが、僕が自分の眼で見ただけでも、談合裁判的な行為等これに類した事実はいくつかあったわけですからね。日本の司法に一般的に存在する根深い問題の一つだと思います。

「元東大法学部長」で「商法、法哲学の学者」であった人間が、最高裁長官になると、こういうことをやっている。これが、日本の司法の現実、実像なのですが、僕も、この報道にはすごくショックを受けました。本来なら、各紙の一面、テレビのトップニュースを飾るべき重大な事柄ではないかと思います。

なぜ田中長官がこのような行為を行ったかについては、元学者、そして裁判官の長として当然従うべき正義の要請よりも、アメリカと国粋的保守派の政治ないし政治家に対する忠義のほうを優先させる、そうした、法律家としてはあるまじき倫理観によるところが大きいでしょう。しかし、こうした倫理観、価値観は、彼だけのものではなく、裁判所のリベラル派を排除することを意図して選ばれたといわれる石田和外(かずと)長官以降の多くの長官にも、おそらくは共有されているものではないかと思います。

もう一つは、表と裏の使い分け、行動と倫理に関する二重基準(ダブル・スタンダード)という問題です。これについては、本書の各所で繰り返し論じています。

--本書を読むと、日本社会の従来の予定調和的なあり方に異議を申し立てるような事件については、個別事例の性格やテーマとされている法律問題の検討が満足に行われないまま、初めに結論ありきで判決が下されているように感じられます。私たちが授業で学んだ三権分立の相互チェックは、絵空事のように思われるのですが・・・・・・。

日本評論社より刊行された『民事訴訟の本質と諸相』。法律書でありながら、映画や文学、社会評論に話題が及ぶ、瀬木氏ならではの作品になっている

瀬木:裁判所と裁判官の問題は、彼らだけの問題ではなく、判決や裁判所における和解等々を通じて、国民、市民の生活と人権に深く関わってきます。 ごく簡潔にまとめれば、「統治と支配の根幹に関わる事柄はアンタッチャブルで絶対に動かさない。必ずしもそうでない部分では、可能な範囲で一般受けをも指向する」というのが、現在の最高裁の路線といってもよいかもしれません。しかし、残念ながら、そうした事態を見抜けるほどに広い視野と司法に関するヴィジョンを備えたメディアは、わずかであるように思います。

裁判所・裁判官制度の根本的な改革が行われない限り、三権分立はかなり絵空事に近いでしょう。苦い真実ですが、僕は、本書が生まれるきっかけになった僕の研究の総論『民事訴訟の本質と諸相』(日本評論社)で書いているとおり、学者は「政治」など行うべきではなく、ただ真実のみを語ればよいのだと思っていますから、そう言わざるをえません。

--先の質問と関連しますが、日本の裁判官の判断回避傾向、和解の強要、押し付けについて、ビジネスマンにも貴重な情報であると思いますので、少し教えていただけませんか?

瀬木:これについては、日本の裁判官が、本質的に、法服を着た「役人」であり、裁判所当局の、また、制度の「しもべ、囚人」という傾向が強いことに根本的な原因があります。

困難な判断、言葉を換えれば重要な判断であればあるほど、判断を回避したい、つまり、棄却や却下ですませたい、和解で終わらせたい、そういう傾向が強く出てきます。

日本の司法にきわめて特徴的な傾向であるにもかかわらず、これまで、法学者も、法社会学者も、実務をあまり知らないこともあって、こうした事態を見過ごしてきました。

個人の訴訟はもちろんですが、会社の訴訟でも、これはぜひとも理非の決着を付けてもらいたい、判断を求めたい、そういう事件は必ずあるはずです。損得勘定だけのことなら弁護士等を交えた裁判外での話合いが可能な場合が多いでしょうから、企業についても、あえて裁判に訴えるという場合には、それ相応の事情があることが多いでしょう。

ところが、日本の裁判官は、そうした期待を裏切って、ともかく、早く、また判断をしないで事件を終わらせるという方向に走りやすい。

もちろんアメリカでも和解は多いのですが、それなりに手続的な正義が尽くされており、日本のように、裁判官が、当事者の一方ずつに対し、別々に、延々と和解の説得を行うなどといったことはありません。

これは、裁判官が、相手方当事者のいないところで秘密裏に情報を採っている可能性があるということで、国際標準からすれば、手続的正義の基本原則に反するのです。「裁判官はそういう正しくないことはしないはずである」という幻想の上に成り立っているやり方ですが、実際には問題が大きい。裁判官がかなり自覚的な良識派でない限り、危険なことになりやすいのです。

一般にはあまり知られていない問題ですが、国民、市民、企業のいずれにも関係する重要な事柄なので、本書第4章等で詳しく論じています。

--瀬木さん御自身のことに移ります。瀬木さんは、ある時期までは順当にエリートコースを歩んでこられたようにみえます。ネットでは、「絵に描いたようなエリートコースを歩む裁判官だった」、あるいは、「超エリ-トと目されていた」などと評している人もいました。仮定の話ですが、最高裁事務総局の意向を汲み取り、出世コースを邁進することも可能だったのではないでしょうか? なぜそのような選択肢を採られなかったのでしょうか?

瀬木:これは、本書を読んでいただければ、あるいはさらに僕の筆名の書物を読んでいただければよくおわかりになることだと思いますが、そもそも、僕に関する先のような類型的なイメージと、僕の内面、本質との間には、大きな溝がありました。

40歳の時に一時的なうつで倒れた前後から、その溝を自覚するために、あるいは埋めるために、筆名の執筆、実名の研究と執筆、それもかなり先鋭な側面の大きいものを続けてきましたが、それによって、僕は、当然のことながら、一枚岩の組織の中で少しずつ浮き上がっていき、排除されるようになってもいったわけですね。

いずれにせよ、質問にあるような選択肢を採ることは、僕にはおよそ無理でしたし、ありえないことです。

--今のお言葉どおり、最高裁判所調査官時代に「うつを伴う神経症」になられていますが、それほどまでに耐え難い日々だったのでしょうか? 何か直接的なきっかけはあったのでしょうか?

二度目の最高裁判所勤務時代に休職した瀬木氏。裁判官支配・統制の司令塔ともいえる最高裁判所での勤務は、瀬木氏にとって苦痛以外のなにものでもなかった

瀬木:それまでに蓄積してきた無理が一挙に噴き出したという感じでしたね。ですから、主観的にはすごく苦しかったけれども、熟練の医師は、「うつは重くない。神経症的な機制と絡み合っているから苦しいのだ」と正しく診断していました。

実際、しばらくの間入院して、人生というのは、一本のロウソクがしばらくの間輝き、やがて燃え尽きるのと何ら変わりのない、単純なものなのだと悟りました。それだけで、うそのようになおってしまったのです。

つまり、心の中にある機制や矛盾こそ問題だったということなのでしょう。このことは、『心を求めて――一人の人間としての裁判官』(騒人社)などの筆名の書物の中でも詳しく書いています。

--書物の中では、エリート裁判官たちの自殺などその挫折についても書いていらっしゃいますが、そうした人々は、どのようなきっかけで挫折に至ったのでしょうか?

瀬木:挫折の原因は、多くの場合、先に述べたような表と裏の使い分け、二重基準の欺瞞に耐えられなくなったということであると思います。ある意味、その使い分けに徹することができなかった、そうした正直な人々が挫折していきやすいということなのでしょうね。

ただ、そうした人々を端から見ていると、何といったらいいのでしょうか、やや酷な言い方になるかもしれませんが、中身が乏しい、内容がないといった印象を受けることが多かったのも事実です。空洞、空虚を内に抱え込んでいるという感じでしょうかね。

本書で論じている、トルストイの短編から採ったイヴァン・イリイチタイプの裁判官には、多かれ少なかれそういう雰囲気があります。常に自分の内にある矛盾から目をそらし、みずからの良心からも目をそらしているという感じですね。

--業績という形で「神の見えざる手」による調整が働く企業などと違って、官僚機構は、いったん人事がよどみだすと、とどまるところを知らないことになるという印象をもちました。おりしも今年7月は最高裁判所長官の交代期ですが、今後の人事はどのように変わっていくでしょうか?

瀬木:これも書物に記したとおりですが、基本的には路線は何ら変わらないと思います。司法制度改革を悪用して支配、統制のシステムを徹底的に固め、末端の人事にまでその方針を貫徹させている現在の最高裁長官や最高裁事務総局のやり方は、長い時間の間に必然的に積み上げられてきたものであってそう簡単に変わるわけがなく、おそらく、そのまま受け継がれていくでしょう。

もしも、変わった、変わったなどという人がいたら、眉唾で聞いたほうがいいですね。日本のメディアに現れてくる論調には、本質的な問題から目をそらすことによって、意識的にか無意識的にか権力のお先棒をかつぐ傾向が否定できませんが、残念なことです。

また、第6章にも記したとおり、本当をいえば「システム」こそが主人なのであって、最高裁長官等のトップもまた歯車にすぎない、ということもいえます。フランツ・カフカが、『流刑地にて』という短編で語っているのは、まさに、そういう「権力としてのシステム」なのではないかと思います。

--ただ、正直、裁判官の人事は、一般の人々にとっては「コップの中の嵐」にすぎないようにも思えるのです。「コップの中の嵐」では、私たちの受ける判決内容にさしたる変化は生じないのではないでしょうか? こうした考え方は甘いでしょうか?

瀬木:そのように裁判制度の問題を小さく考えることが、結局、本書で論じたような種々さまざまな問題を生じさせる大本、少なくともその一つになっているということを考えていただきたいのです。

サン=テグジュペリの『星の王子さま』の最初のほうで、王子さまが「バオバブの木」についてこんなふうに語りますね。

「大きくならないうちに抜いておかないと、小さな星なら破裂させてしまうよ。最初はバラとそっくりだから、よく気をつけてね」

テグジュペリがここでファシズムを寓意していることは明らかだと思いますが、すぐれた表現は意図された寓意を超えてしまうというのが、文学のすごいところです。

僕も、小さな王子と全く同じことを言いたいですね。

つまり、権力というものは、ほっておけば必ず腐敗するということです。その芽は、常に、小さなところから始まります。

ちなみに、アメリカでは、州裁判官の全員に関する弁護士たちの事細かなアンケート調査の結果が一般の新聞に掲載されます。これは市民が常に監視しておかなければならない情報だということが、共通の理解事項になっているのです。

--第3章の「見えない檻」のレトリックはきわめて秀逸で、裁判所のみならず、日本のさまざまな「部分社会」に共通する病理であるように思われます。本書は、単に司法の荒廃、腐敗を告発した問題作という以上の、日本社会の病理とその構造に深く迫った書物ではないかという印象をもちました。この表現は、どのようにして思い付かれたのでしょうか?

瀬木:自分自身の体験からですね。定められた領域に安住している限りその檻は見えないが、いったん自分の眼で見、自分の頭で考えるようになれば、たちまち、見えなかった檻にぶつかることになる。

旧ソ連の全体主義的共産主義や、さらにさかのぼればアウシュヴィッツの恐怖について考察した多くの書物から得た考察も、それを補完しています。アウシュヴィッツも、旧ソ連等の強制収容所も、その存在については取沙汰されていながら、その真実は、長い間明らかにされませんでした。これもまた、見えない「ゾーン」、「檻」だったのではないでしょうか?

--現在の司法は既に自浄能力を失っており、司法の根本的な改革のためには、弁護士等を相当期間務めた人々の中から透明性の高い形で裁判官を選出する「法曹一元制度の実現」しかないとのお考えですが、弁護士の質の劣化が叫ばれているいま、有効な手段とはなりえないのでないかとの意見もあるようです。また、法曹一元制度提言はポピュリズム的で無責任だとの意見さえ一部にはあります。いかがでしょうか?

瀬木:はい、そのような意見があることは重々承知しています。ある意味で、「やっぱり自民党でなければ」という意見と似ていますね。

一理ありますが、僕は、まず現実性の有無というところから判断して思考放棄してしまうのは、やはり適切ではないように思います。

また、司法の場合には、弁護士という受け皿があり、それは、司法の担い手たりうる、そしてそれをめざすべき集団ではないかとも考えています。

『民事訴訟の本質と諸相』では、厳しい弁護士批判をも行い、その上で、やはり法曹一元制度をめざし、その基盤作りに着手すべきではないかと書いています。本書を読んでさらに司法に興味を抱かれた読者には、そちらもお読みいただければ、司法制度、裁判と裁判制度、人々や法律家の法意識、学問のあり方と方法等に関する僕の考え方やヴィジョンの全体像がよりよく理解していただけるのではないかと思います。

これは、裁判官でも、弁護士でも、あるいは学者、ジャーナリスト、医師等ほかの専門職でも同じことなのですが、その中で本当にすぐれた部分の割合は、職種によってある程度の差はあるものの、それほど大きいわけではありません。

そして、その部分を比べるとき、裁判官については、もはや良識的、自覚的な、独立した裁判官と呼べるような人々の層はかなり薄くなってきており、また、現在の官僚機構の中では残念ながら絶対上には行けない。したがって、改革の力にはなりえないのです。僕の経験からもわかりますが、何とか孤塁を守るのが精一杯でしょう。

一方、弁護士については、上から下までの落差が大きいことはもちろんどこの国でも同じです。しかし、僕の知る限り、その中の上層部は、人権感覚にすぐれ、能力も謙虚さもある人が比較的多いと思います。ですから、弁護士の中の本当にすぐれた部分が裁判官になるなら、全体として今よりもよい裁判が行われるし、その質も落ちたりはしない、そのことは、僕は、かなり自信をもって言えます。

第6章にも記したとおり、良識派の元裁判官には、弁護士をやっている人を含め、そういう考えの人々は結構多いのですよ。つまり、元裁判官だからこそ、現在の問題の大きさがよくわかるのです。元良識派裁判官たちは、裁判所や裁判官に対する幻想をもっていませんからね。

ただ、それでは、現在の弁護士全体、弁護士会全体が以上のような状況に十分自覚的であるかといえば、答えは否かもしれません。だからこそ、『民事訴訟の本質と諸相』では、「弁護士全体、弁護士会全体が本気になって取り組めば」という留保を付しています。

--古巣の批判は、精神的にもかなりの御負担だったと思います。執筆に当たられた際の心境をお聴かせ下さいませんか?

また、これと関連しますが、今日のお話からも明らかなとおり、裁判所当局による裁判官支配、統制が徹底した今日、裁判官が個人の矜持を貫き通すのはかなり難しくなっているように思われます。瀬木さん御自身は、みずからの理想を最後まで貫き通すことがおできになりましたか?

瀬木:厳しい問いかけですね。

実務は決してきれいごとではありません。リアルに描写するなら、むしろ、泥まみれの戦場に近いでしょう。そして、そこにおいて「ささやかな正義」を実現するのも、実際には容易なことではない。最近読んだ岩明均の漫画(『雪の峠・剣の舞』〔講談社〕のあとのほうの作品)に出てきた身につまされる言葉を借りれば、結局のところ、一人の人間の力では、「城一つ、女一人」守れない、守ることは容易ではない、そういうことなのかもしれません。

僕は、裁判官として、本書でも触れたようないくつかの悔いを残す事件を除けば、まずまず適切な訴訟指揮、和解、判決を行ってきたと思いますが、しかし、「おまえは自分が司法にかけた理想を守り切れたのか?」と問われれば、胸を張って守り切ることができたと答えるほどの自信はありません。

ただ、先の作品の中に出てくる剣士にとって、竹刀が真剣と何ら変わりのない必殺の武器であったように、僕も、常に、真剣勝負の気概で、残された期間、研究、教育、また、各種の執筆に打ち込んでいきたいと思います。それが、せめてもの償いであり、自分自身に対する責任の取り方でもあるということです。

瀬木 比呂志(せぎ・ひろし)一九五四年名古屋市生まれ。東京大学法学部在学中に司法試験に合格。一九七九年以降裁判官として東京地裁、最高裁等に勤務、アメリカ留学。並行して研究、執筆や学会報告を行う。二〇一二年明治大学法科大学院専任教授に転身。民事訴訟法等の講義と関連の演習を担当。著書に、『民事訴訟の本質と諸相』、『民事保全法〔新訂版〕』(ともに日本評論社、後者は春ごろ刊)等多数の専門書の外、関根牧彦の筆名による『内的転向論』(思想の科学社)、『心を求めて』『映画館の妖精』(ともに騒人社)、『対話としての読書』(判例タイムズ社)があり、文学、音楽(ロック、クラシック、ジャズ等)、映画、漫画については、専門分野に準じて詳しい。
絶望の裁判所 (現代新書)

作者:瀬木 比呂志
出版社:講談社
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