おすすめ本レビュー

『エピジェネティクス』見た目や性質は、氏か育ちか、だけじゃない?

塩田 春香2014年5月23日

HONZ内で「これを読んでいないと、まるで話についていけない本」というのが存在する。中でも特に話題に上るのが、岩波科学ライブラリー『ハダカデバネズミ』『クマムシ?!』『フジツボ』の3冊。これらの本が、同じ編集者によって手がけられていたことをご存知であっただろうか。それが今回寄稿いただいた伝説の編集者・塩田春香さんである。

 

ちなみに上記の3冊は変わった生き物を紹介していると同時に、変わった研究者を紹介する読み物としても他の追随を許さない。そんな彼女がターゲットにしたのが、我らが「エピジェネ仲野」。彼女の目に新刊『エピジェネティクス』、そして「エピジェネ仲野」はどのように映ったのだろうか。

エピジェネティクス――新しい生命像をえがく (岩波新書)

作者:仲野 徹
出版社:岩波書店
発売日:2014-05-21
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エピジェネティクス――この耳慣れない言葉に、「私には関係ないもんね~」とスルーしかけている、そこのあなた! じつは「関係大アリ」、かもしれないのだ。

もし、あなたが罹るかもしれない、がんや糖尿病、心筋梗塞などの病気とその治療に、このエピジェネティクスが関わっているとしたら? あなたの子どもが将来受けうるストレスに対する抵抗力にも、その影響があるとしたら?

いま、生命科学の研究で注目され、著しく進展しつつある分野が、このエピジェネティクスなのである。

生物の特性は、DNAのもつ遺伝情報によって受け継がれる。では、体細胞核移植で三毛猫のクローンをつくったら、どうなるか? もちろん、同じ模様のネコがもう1匹できる。と、思ってしまいそうだが、なんと答えはノー。

斑入りのアサガオから模様のない白いアサガオを生み出しても、代を重ねれば再び斑入りのアサガオが現れる。なぜこのようなことが起きるのか? これこそが、エピジェネティクスの成せるわざ、なのである。

本書は、「氏か育ちか」だけでは説明できない、生命の不思議への新しい扉を次々と開いてくれる。

「エピジェネティクス」という言葉は「エピジェネシス(後成説)」と「ジェネティクス(遺伝学)」との複合語。そもそもは「なぜ1つの受精卵から様々な細胞ができるのか?」という問いに答えるために生まれたのが、エピジェネティクスのアイデアであった。

神経細胞や血液細胞のような細胞が「それぞれの表現型を示すようになる過程において、遺伝子がその産物とどのように影響し合うのか」。これがそのエッセンスである。

だが、エピジェネティクスの定義には研究者によっても歴史的にも、捉えかたに違いがある。現在の最大公約数的定義は、

エピジェネティックな特性とは、DNAの塩基配列の変化をともなわずに、染色体における変化によって生じる、安定的に受け継がれうる表現型である。

……といわれても、いまひとつピンとこないかもしれない。

シロウトのざっくりとした理解では、「遺伝でも、突然変異でも、努力によって獲得されるものでもない、その生命を特徴づける現象」というところだろうか?

さらに、

①ヒストンがアセチル化をうけると遺伝子発現が活性化される
②DNAがメチル化されると遺伝子発現が抑制される。
この2点がエピジェネティック修飾による遺伝子発現制御の基礎中の基礎である。

となると、分数の掛け算もできない文系人間の私などには、正直もうお手上げだ。

だが、これで終わらないのが、著者の書き手としての手練ぶり。専門的に正しい解説を心がけながら、科学オンチのことも見捨てはしない。少し長いが引用する。

ゲノムを膨大なテキストからなる書物とすると、エピゲノムはその書物について「ここを読みなさい」「ここを読んではいけません」と示す指示である。(中略)

 

書物にはいろいろな文章が書いてある。そこに、「ここを読みなさい」という活性型の付箋や、「ここを読んではいけません」という抑制型の付箋がつけられている。さらに伏せ字になっているところがあって、これは抑制型の付箋以上に強固で、物理的に読めなくなっている。しかし、エピジェネティクス状態が変わったとしても、言い換えれば、付箋の付き方や伏せ字の場所が変わったとしても、当然のことながらテキストそのものが変わるわけではない。

 

ゲノムは不変だが、エピゲノムあるいはエピジェネティックな状態は可変である。そのことは、この喩えでいえば、文章は変わらないけれども、付箋の付け方や伏せ字の場所は変えることができる、ということを意味する。書かれているテキストの内容は変わらないが、付箋と伏せ字による指示に従って読むことにより、読み取られる情報が変わるということなのだ。

先に挙げた、クローン三毛猫がもとのネコと同じ模様にならないことを思い出してほしい。上記の喩えにあてはめて「同じゲノムを持ってはいるが、そのゲノム情報に対する付箋の付け方や伏せ字の場所が異なるから、異なる模様が現れた」と考えると、なんとなくわかった気にはならないだろうか?

本書は、分子生物学の専門的な領域を扱うために、一般になじみのない用語も多く登場する。だが、仮にそうした部分を理解できなくても、たとえば、胎児期の低栄養が大人になってからの生活習慣病のリスクになりうることや、子どもをよくかわいがる親に育てられたラットは成体になってからもストレスに強いこと。妊娠中のマウスに強いアルコールを与えたら生まれてくる子どもの毛の色に影響があったこと、記憶への作用やがんの発症、創薬への応用や体外受精で生じる異常の可能性……等々、気になる話題は枚挙に暇がない。

しかし、そうした話題には、まだわかっていないことや、動物では解明されているがヒトでは不明、というものが多いのも、また事実。

読者としては結論をズバッと言ってくれるほうがスッキリするが、そこにおもねることなく、何がわかっていて何がわかっていないのか、正直かつ丁寧に解説する姿勢にも好感がもてる。

解析技術の飛躍的な向上にも助けられ、研究はこれから劇的に進んでゆくに違いない。本書を読んでいれば、この分野における新事実が解明されるたびに、いままさに科学が進歩する現場に立ち会っているという興奮を味わうことができるはず。読者のなかから「我こそが謎を解く!」と志す猛者たちも、登場するかもしれない。想像するだけで、わくわくする。

まさに、著者自身が意識したという「その分野のことを何も知らない人にも、その分野のことを知り尽くしている人にも有益」な本に仕上がっているのだ。

なお、お気づきのかたも多いだろうが、本書の著者はHONZのレビュアーとしても不動の地位を築いている仲野徹先生。どうりで文章がうまくて当たり前。毎月完成度の高いレビューを投稿しているものだから、「本業のほうは大丈夫かしら?」と勝手に心配していたが、やっぱりちゃんと研究もしていらしたのですね。仲野先生、失礼しました!
 

塩田 春香
出版社営業局勤務。大学では日本美術史を専攻するも、自然や生きものへの愛情を抑えきれず、自然科学系書籍の編集に3社で合計10年間ほど携わる。好きな作家は井上靖。好きな花はキュウリグサ。最近の関心事は、ミナミコアリクイの威嚇がすごくカワイイことと、家庭菜園を荒らすハクビシンをどうやってとっちめるか。