たび重なる悪行により、ついにタイソンは少年院送りとなる。そこでも問題児だった彼は、あるときボビー・スチュワートという教官にボクシングで打ちのめされる。それを機にボクシングに興味を抱いたタイソンは、トレーニングに熱中する。そして、人生の師との運命的な出会いが訪れた。
※過去記事 第1回
それからほどなく、ボビーから提案があった。「お前を伝説のボクシング・トレーナーのところに連れていってやる。彼の名前はカス・ダマト。そこで訓練すれば、お前は違った世界を見られるはずだ」
「どういうこと?」と訊いた。あのころはボビー・スチュワートだけが頼りだった。ほかの誰も信用できない。なのに、俺を投げ出すのか?
「いいから、とにかくその人を信じろ。カス・ダマトを」と、彼は言った。
そして1980年3月のある週末、ボビーと俺はニューヨークのキャッツキルへ車で向かった。カス・ダマトのジムは町の警察署の上にある集会所を改修したものだった。窓がなく、古めかしいランプが天井から吊り下がって光を灯していた。壁を見るとたくさんポスターが貼ってある。活躍している地元の少年を取り上げた記事の切り抜きだった。
カスの見かけは、冷徹非情なボクシング・トレーナーそのものだった。背は低く、頭は禿げていて、がっちりした体で、いかにも屈強だった。話しかたも強気で、顔に笑いじわなんてひと筋もない。
「やあ、俺がカスだ」と、彼は自己紹介した。きついブロンクス訛りだった。テディ・アトラスという若いトレーナーもいっしょにいた。
ボビーと俺はリングに上がって、スパーリングを開始した。俺は最初から力強く、リング狭しと動き回ってボビーを打ちまくった。ふだんは3ラウンドまでやっていたが、このときは2ラウンドの中ごろ、ボビーの右が何度か俺の鼻に当たり、鼻血が出始めた。痛みはなかったが、顔じゅう血だらけになった。
「そこまで」と、アトラスが言った。
「いや、このラウンドは続けさせてください。もう1ラウンド残ってるじゃないですか」と、懇願した。なんとかカスにいいところを見せたかったんだ。
だが、カスにはすでにわかっていた。俺たちがリングを下りると、カスは開口一番、ボビーにこう言ったそうだ。「未来の世界ヘビー級チャンピオンだな」
スパーリングのあと、すぐに俺たちはカスの自宅へ昼飯に向かった。カスは10エーカーの土地に立つヴィクトリア様式の白い大邸宅に住んでいた。ベランダからはハドソン川を望める。家のかたわらには高くそびえる楓の木々やバラ園もあった。こんな家がこの世にあるなんて、生まれて初めて知った。
腰を下ろすと、カスは俺に歳を聞いた。13と答えると、信じられないというポーズを取った。そして、俺の将来について語り始めた。スパーリングを見たのはたった6分たらずだったというのに。
「お前はすばらしい」彼は言った。「最高のボクサーだ」賛辞に次ぐ賛辞だ。「俺の言うことを素直に聞けば、史上最年少の世界ヘビー級チャンピオンにしてやる」
おいおい、こいつ、やばいやつじゃないか? 俺の育った世界じゃ、変態行為をしようとするやつがこういう甘い言葉を口にするんだ。なんて答えたらいいかわからなかった。それまで、誰かから褒められたことなんて一度もなかったからだ。しかし、もうほかにすがるものもない。この爺さんについていくしかない。それに、やっぱり人に認められるのはいい気分だ。これはカスの心理作戦だったのだと、あとになってわかった。弱っているやつをちょっといい気持ちにしてやると、癖になるんだ。
〈トライオン〉少年院に戻る車中、俺は興奮していた。膝の上にはカスがくれたバラの花束。それまで、バラなんてテレビでしか見たことがなかった。庭のバラがあんまりきれいだったから、少し欲しくなってカスに頼んだんだ。バラの香りと耳にこだまするカスの言葉に包まれて、最高の気分だった。俺の世界はこの日を境に変わった。あの瞬間、俺は自分が何者かになれることを確信した。
「気に入ってもらえたみたいだな」と、ボビーが言った。「ばかな真似をしでかして、チャンスを逃すなよ」ボビーも喜んでくれた。
部屋に戻ると、バラが枯れないようすぐ水に生けた。その夜はカスがくれたボクシングの百科事典を一睡もせずに読破した。ベニー・レナードに、ハリー・グレブに、ジャック・ジョンソン。夢中で読んだ。彼らに憧れた。彼らにはルールなんかないみたいだった。猛練習はするが、練習以外の時間は派手に遊んで暮らす。強ければ、神を崇めるみたいに周囲に人が群がってくる。
毎週、週末になるとカスの家へ練習に行くようになった。ジムでテディ・アトラスと練習し、カスの家に泊まっていった。ほかにも何人かのボクサーが、カスと連れ合いのカミール・イーワルドという可愛いウクライナ系の女性と寝食を共にしていた。最初のころ、カスの家に行くと、まずやったのはテディの財布からカネをくすめることだ。ちょっとツキが回ってきたからって、身についた癖はやめられるもんじゃない。マリファナを買うカネが必要だったんだ。テディはよくカスに、「マイクにちがいない」と訴えていた。
「やつじゃない」と、カスはかばってくれた。
ボクシング漬けの毎日だったが、命を懸けたいとまで思ったのは、ある週末、カスの家で2人の男の対決を見てからだ。レイ・レナード対ロベルト・デュラン戦。すげえ! 全然次元が違う。心底わくわくした。2人とも颯爽としていて、危険な感じで、パンチがおそろしく速かった。まるで試合に振り付け師がいて、それを2人が演じているかのようだった。あれほどの衝撃はそれまでなかったし、これからもないだろう。
気持ちははやったが、カスの家に通い始めた当初はまったくボクシングをさせてもらえなかった。テディとの練習が終わると、カスが横に座って、2人で話し合う。彼は俺の気持ちや感情、ボクシングの心理面について語った。俺の心の奥まで知りたがった。このスポーツの精神面について、いろんな話をしてくれた。「自分の中に崇高な戦士がいないと、絶対にいいボクサーにはなれない。体がどれだけ大きくて、どれだけ強かろうと関係ないんだ」と、カスは言った。かなり抽象的な概念だったが、言いたいことはわかった。カスは俺の言葉を理解するすべを知っていた。彼自身も子供のころ、過酷な環境で育ったストリート・ファイターだったからだ。
まずカスは、恐怖心と、それを乗り越える方法について語った。
「恐怖心はボクシングを学ぶうえで最大の障害だ。しかし、恐怖心は一番の友達でもある。恐怖心は火のようなものだ。管理する方法を学べば、自分のために利用することができる。コントロールできないと、火はお前と周囲のあらゆるものを破壊する。山上の雪玉のように、転がる前なら対処できるが、いちど転がりだしたらどんどん大きくなって押しつぶされる。だから、恐怖心を肥大させてはならない。
野原を横切っているシカを思い浮かべろ。森に近づいたとき、突然、本能が告げる。危険なものがいる、ピューマかもしれない。ひとたびそうなると、おのずと生存本能が起動して、副腎髄質から血液にアドレナリンが放出され心臓の鼓動が速まって、並外れた敏捷性と力強さを発揮できるようになる。通常そのシカが15フィート跳べるところを、アドレナリンによって最初の跳躍が40フィートにも50フィートにも延びる。人間も同じだ。傷つけられたり脅されたりといった状況に直面すると、アドレナリンが心臓の鼓動を速める。副腎髄質の作用で、ふだんは眠っている力を発揮できるんだ。
勇者と臆病者の違いがわかるか、マイク? 何を感じるかという点では、勇者と臆病者に違いはない。両者の違いは、何をするかにある。勇者がすることを真似、臆病者がすることをしないよう、自制心を手に入れるんだ。
自分の心は友達じゃないぞ、マイク。それを知ってほしい。自分の心と戦い、心を支配するんだ。感情を制御しなくてはならない。リングで感じる疲れは肉体的なものじゃない。実は90パーセントは精神的なものなんだ。試合の前の夜は眠れなくなる。心配するな、対戦相手も眠れてやしない。計量に行くと、相手が自分よりずっと大きく、氷のように落ち着いて見えるだろうが、相手も心の中は恐怖に焼き焦がされている。想像力があるせいで、強くもない相手が強く見えてしまうんだ。覚えておけよ。動けば緊張は和らぐ。ゴングが鳴って、相手と接触した瞬間、急に相手が別人に見えてくる。想像力が消えてなくなったからだ。現実の戦い以外のことは問題でなくなる。その現実に自分の意志を定め、制御することを学ばなければならない」
カスの話には何時間でも耳を傾けることができた。そんな相手には今まで出会ったことがなかった。
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