「解説」から読む本

『特攻の真意』文庫解説 by 大森 洋平

本の話 WEB2014年8月5日
特攻の真意 大西瀧治郎はなぜ「特攻」を命じたのか (文春文庫)

作者:神立 尚紀
出版社:文藝春秋
発売日:2014-07-10
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本書は「特攻の生みの親」と言われた海軍中将大西瀧治郎が、いかなる真意のもとに特攻作戦を指導し、死に至るまで徹底抗戦を呼号したか、その解明を試みたものである。

著者神立尚紀は、太平洋戦争について海軍航空隊の戦いを中心にして、高い記録性を持つ数々の優れたノンフィクションを世に送ってきたが、これまで特攻作戦を書くのは「意識して」避けてきたと言う。その神立があえて今回特攻を題材に選んだ理由は、自身があとがきで詳しく述べている。神立の腕をもってさえ、特別攻撃隊は重いテーマだったのである。

神立は、当時の戦闘記録、当事者の証言、写真解析、その他の膨大な資料を駆使して物語を進め、その筆致は従来に増して抑制され着実である。本書が導き出した「特攻の真意」は、ネタバレになるのでここで殊更繰り返さない。しかし本書が、今後日本人が特攻について、いや太平洋戦争全体について考え、論じ、あるいは創作を試みる時、絶対に無視できない存在となることは疑いない。

この書物の魅力は、まずその巧みな構成にある。第一章から七章は、戦局の推移に現代の回想を交えつつほぼ時系列に沿って進み、ここで読者には、結論に至る手がかりとして様々な情報が提示される。八章と九章でついに大西をめぐる謎が解き明かされるが、そのプロセスにはあたかも上質の推理小説を読むかのような知的興奮を覚えるだろう。エピローグでは、登場人物すべてのその後が淡々と描かれる。そして大西の副官門司親徳が、大西と同じ「二十年八月十六日」に世を去る終幕には、単なる偶然の一致では割り切れない、人の世の不思議さを感じさせる。神立の言う「ものごとにはいくつもの筋があり、それが近づいたり遠ざかったり、複雑に絡み合ったりして、ひとつのできごとは起こる」、まさにその象徴であろう。

第二の魅力は、その平明達意の文章で、凡百の戦争小説をはるかに上回る。第五章、関大尉(だいい)率いる敷島隊が、敵護衛空母群「タフィ・3」に攻撃をかける描写に注目して欲しい。ここでは安手の擬音・擬態語はおろか、形容詞さえほとんど使われていない。ただ「飛行機が、船に、突っ込んだ」様子を簡潔に描いているだけなのだが、読者はそれをまるで、ごく近距離の鮮烈なカラー映像で観戦しているような錯覚に陥る。これは報道カメラマンとして出発した神立の資質によるもので、第九章、いよいよ謎が符合する大詰めの「あたかもカメラのピントが合うかのように」という言葉遣いにも、おそらく本人無意識のうちに現れている。神立は報道写真と同じく、文章においても常に構図を重んじ、「どうすれば読者に一発で理解してもらえるか」で勝負する。よって例えば文中に、テーマ上色々難解な軍事用語が出てきても、読者は文章のリズムに乗って「何となく」その意味がつかめてしまう。あとは筆の流れに身を任せて読み進めれば良いだけである。

第三の魅力は、二人の証言者、角田和男と門司親徳の存在である。角田は予科練から叩き上げの特務士官、門司は東京帝大卒で短期現役の主計士官。どちらも海軍兵学校出身のいわゆる「本職」ではない。しかし海軍内ではアウトサイダー的なこの二人が大西の身近にいたことは、ある意味幸いだった。角田は熟練の戦闘機搭乗員としての観察眼と直感から、門司は兵学校教育とは異質の知識・教養を身につけた青年の視点から、大西の外見に隠された「何か」に気づく。その疑問を胸に抱いた二人が、戦後再会し、やがて本書の誕生につながっていく。もし二人がガチガチの正規将校だったなら「何か」に気づくことも、それを疑問と認識することもなく、結果、特攻についての歴史的考察は従来以上に深まることもなかったろう。

朴訥誠実な角田もさることながら、古今亭志ん生の落語を愛する門司のキャラクターは深い印象を残す。門司は持ち前のユーモアのセンスで、草の上をゴロゴロ転がる大西長官の意外な一面を悟る。ユーモアは人生の様々な負の要素を転換させ、逆境に立ち向かう勇気を与えてくれるものという。戦場という人間社会の最も苛烈な現場から、門司が己を保って生還し、戦後は社会人として成功、戦友の慰霊をめぐっても最後まで毅然とした姿勢を貫き得たのはまさしくユーモアのおかげだろう。靖国神社で倒れた後「あそこで死ねばドラマとしたら完璧だったんだが、どうやら助かっちゃったようだね」と本人がしみじみ語る志ん生落語のオチみたいな場面では、不謹慎ながら誰もが吹き出さずにはいられない。

こういう何気ない達人、真の紳士こそ、日本の各地になおさりげなく生きていてもらいたい。とかく戦後世代は、軍人と言えば一律に「軍国の走狗、訓練によりロボット化した暴力主義者」とレッテルを貼りがちだが、現実はそう単純ではない。実際の戦場には門司や角田のような人々が、好むと好まざるとにかかわらず、黙々と本分を尽くしていたことにも、読者は注目して欲しい。

本書第四の魅力は、時代考証的興味である。神立は空と海の戦場を概観する一方で、その場面場面に出てくる、ちょっとした小道具や、人間の動作にも注意を怠らない。空母から発艦する搭乗員たちが「艦橋に向かって軽く敬礼すると、めいめいの飛行機に向かって歩いてゆく」(以下傍線筆者)「士官用の折椅子と、下士官兵が座る木の長椅子」「電報取次の兵が、電信紙の入った電信箱を、大西(長官)に届け」「稲荷寿司の缶詰」(何だそれ? 食べてみたい!)「海軍では禁じられていた麻雀」等々の描写は、レイテ沖海戦の勝敗に劣らず、将来に語り継ぐべき重要な知識である。私は放送局でドラマやドキュメンタリーの時代考証の仕事をしているのでなおさらそれを痛感する。あらゆるメディアで過去を再現する時、何より大事なのは、有職故実のトリビアな事柄だからだ。

そしてそれは「物・形・動」だけにとどまらず、「言」にも及ぶ。例えば、我々は日常「クルクルパー」という言葉をよく用いる(と思う)。しかし、これがいつ頃からあるものなのか、ある辞書には「昭和三十年頃の流行語」とあるのみ、調べてもどうもよくわからない。だが本書には上官を批判して「クルクルパーになっちゃった」と頭の上で指を回して叫ぶ搭乗員が出てくる。昭和二十年の正月にこの言葉と動作がある以上、この人が成人する過程の、昭和初期の日常会話にも既にあったと無理なく推測できる。これは並の戦記からは絶対に得られない、言語考証上の貴重な実例である。となれば昭和戦前ホームドラマの台詞と所作に取り入れてもよいのだが、まあ、そうは行かないだろう…。

さらに、特攻隊出撃の直前、兵学校出の若い中尉が、階級は下だが超ベテランの角田にどういう口調で話しかけるか、副官たるもの、長官にどういう時に話しかけるべきでないか、といった会話の実例にとどまらず、記述は専門用語にも及ぶ。海軍航空隊の部隊番号の読み方は独特なもので、その一例として「五八二」は「ごひゃくはちじゅうに」と通し読みではなく「ごおやあふた」と読むが、ちゃんとルビがある。これらをわきまえるだけで、台詞やナレーションの精度は格段に増すだろう。「索敵攻撃(敵艦隊の位置を探しながら飛行し、発見すれば攻撃をかける)」に至っては、大国語辞典にもない、簡にして要を得た説明である。こういう意味で、本書は時代考証の一大宝庫を成している。

ところで英国推理小説の古典的名作に「時の娘」という歴史ミステリーがある(ジョセフィン・テイ作 早川書房刊)。ロンドン警視庁の敏腕警部が、不慮の事故で負傷入院中、偶々「幼い王子を虐殺して王位を奪した英国史上最大の悪王」と言われるリチャード三世の肖像画を手にした。歴史学の知識こそ皆無だが、長年の経験から警部は「これはどう見ても悪辣な犯罪者の顔ではない」と直感する。そして寝たきりの徒然に様々な文献資料を収集、犯罪捜査の手法でリチャード王の実像を明らかにし、その冤罪を晴らさんとする、というストーリーである。

「特攻の真意」を最初に読んでいた時、「何だか『時の娘』によく似ている」という印象を持った。本書口絵写真の、和室でくつろぐ大西は、どう見ても「もう二千万特攻を出せば勝てる!」と絶叫する半狂乱の人間には見えない。「ひょっとして大西は佯狂の人だったのか、何が彼をそうさせたのか…」という疑問を抑えきれなくなった。しかも著者神立尚紀は戦後生まれで、リチャード王を知らぬがごとく大西提督を知らない。そして警部と同じ様なアプローチによって、過去に切り込んでゆく。「似ている」と思った所以である。

しかしここで「似ている」というのはあくまでその手法であって、神立は「だから大西中将は、本当はいい人だったのです!」などという安直な結末に飛びついたりはしない。レイテ湾を埋め尽くす米艦隊を回想し「長官か参謀を零戦に乗せて、その様子を見せたかった。見た上で、命令してほしかった」という角田の、悲しみと諦観に満ちた言葉を引くことで、それを示している。

本書を読み終えて、改めて大西を考える時、その真意、功罪を別にして、何より気の毒な人であった、という思いを禁じ得ない。

人間があるものを創造すると、その「もの」は創造者の意図をはるかに超えて勝手にひとり歩きをし、やがては創造者をも災厄に巻き込んでしまう、ということがこの世には間々ある。極端な例は「フランケンシュタイン」であり、核の問題もそうだろう。大西はそうした犠牲者の一人と言えなくもない。

特攻作戦は、単に「敵空母の飛行甲板を使えなくさせる」から始まって、みるみるうちに陸軍にも拡大し、ついに日本人の心に永久に刻印を残してしまった。戦後に及んでは「カミカゼ」は国際語化し、一般人を無差別に殺傷する卑劣なテロの代名詞にも誤用され、また本来人類が普遍的に有しているはずの自己犠牲の精神まで、日本人が実行すると、殊更に「これぞ特攻精神の発露!」等と外国のみならず国内からも、良くも悪くも勘違いされるに至った。

大西は特攻が「統率の外道」であるとは認識していた。大戦末期の大西の言動にある種の倦怠感が読み取れるのは「とんでもないものが生まれてしまった」意識の表れかもしれない。だが、自分の死後のこうした状況までは予想すらしなかったろう。「百年の後にも知己を得られない」という予言は、本人の思いを超えて悲痛な響きがある。

大西を許すか否か、特攻の真意を認めるか否か、角田と門司は果たして大西の「知己」たりえたか否か、判定するのは読者の自由である。しかしこの神立の書が、大西瀧治郎への、ある手向けの花となったことは確かである。

文庫化を機に、本書「特攻の真意」が一人でも多くの日本人に読まれ、過去を観照し、未来を思いやる一助となることを願ってやまない。

(文中敬称略)

大森 洋平 NHKドラマ番組部 シニア・ディレクター(考証担当)
 

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