「解説」から読む本

『人類が知っていることすべての短い歴史』文庫解説 by 成毛 眞

成毛 眞2014年10月23日
人類が知っていることすべての短い歴史(上) (新潮文庫)

作者:ビル・ブライソン、翻訳:楡井 浩一
出版社:新潮社
発売日:2014-10-29
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人類が知っていることすべての短い歴史(下) (新潮文庫)

作者:ビル・ブライソン、翻訳:楡井 浩一
出版社:新潮社
発売日:2014-10-29
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2006年に本書の単行本が出版されたとき、厚さは4.5cm、重さは655gだった。横に寝そべって読むにも、すぐに手が疲れたし、本を掲げて仰向けに読むと、命の危険を感じる重さだった。業務用のラーメン丼でも500g程度なのだ。そんなものが顔面に降ってきてはたまらない。通勤通学の電車の中で読むこともままならない。あまりに厚く重いので、首から画板でも吊り下げてみようかと思ったのだが、まともな大人のすることではない。

それゆえ、単行本は机に書見台を置き、正座に身を正して読んだ人が多かったに違いない。6部30章で構成される本だから、1日1章、きっちり1カ月間で読み終わる。読書とはこうあるべし。「読書百遍意自ずから通ず」と漢学の素養がある人であれば考えたに違いない。もはや修行である。

ところが実際には、ほとんどの読者は1週間もしないうちに読み終わったのだ。あまりにも面白く、ページをめくる手が止まらなかった。サイエンス全般という難しいテーマであるにも関わらず、文章は平明でユーモアに溢れ、登場する科学者たちは個性的かつ人間的な魅力に満ち、取り上げられるテーマは森羅万象に及んでいる。最先端のサイエンスが、何百年前に生きた科学者たちの研究の積み重ねの上に築かれたものであることが一覧できるだけでなく、現代を生きる科学者の素顔に触れることもできるのだ。

まさに知の冒険。たしかに、著者のビル・ブライソンは旅行作家であり『ビル・ブライソンの究極のアウトドア体験』(中央公論新社 2000年刊)という長距離トレッキングの本なども著している。本書はその作家がサイエンスという森を旅した冒険譚なのだ。サイエンスの門外漢が冒険に要した期間は3年間。森に分け入ったというのは比喩ではない。

森の木に相当する、巻末に掲載されている参考文献を数えてみた。著者をアルファベット順に整理したものだが、その総数301冊。なかには読み応えのある専門書もあるのだが、ブライソンは4日に1冊の割合で、3年間ぶっ続けで読んだことになる。ちなみに日本語に翻訳されているのは、そのうち121冊。翻訳ものを読むだけでも一生の仕事になってしまいそうだ。科学本の森に足を踏み入れて生還したブライソンの髭面が目に浮かぶ。

著者が本書を上梓したのは2003年。日本語版の出版には3年間かかった。読者にとって歯ごたえ読みごたえのある本なのだから、翻訳者にとっては厄介きわまりない仕事だったに違いない。原文が平明でユーモアに富む文章だったとしても、近代科学史と最先端科学が交互に語られるため、用語も時間軸で異なってくる。あつかうテーマも宇宙論、量子論、地球物理学、進化論、生命科学と、その広大さに正面から向かいながら、サイエンス特有の厳密さも守られなければならないのだ。

本書の翻訳者は楡井浩一さんだ。楡井さんの翻訳物は明確に2つの類型に分類できる。本書を筆頭に『文明崩壊』(ジャレド・ダイアモンド著 草思社)や『ロックフェラー回顧録』(デイヴィッド・ロックフェラー著 新潮社)、『インフォメーション』(ジェイムズ・グリック著 新潮社)など分厚く壮大なノンフィクション。そして、もう一つのタイプは『バビロンの大金持ち』(ジョージ・S・クレイソン著 実務教育出版)や『図解 なぜか、「仕事がうまくいく人」の習慣』(ケリー・グリーソン PHP研究所)など、手軽な成功哲学や自己啓発本だ。

この2類型のギャップはとても大きく、ひとりの翻訳家が引き受けた仕事とは考えにくい。分厚く壮大なノンフィクションは複数の翻訳家による分担仕事、成功哲学やハウツー本は若手翻訳家が引き受ける出世仕事のように見えるのだ。

じつは、翻訳出版業界では常識だったのだが、この楡井浩一さんという翻訳家は東江一紀(あがりえ・かずき)さんのペンネームだったのだ。東江さんがお弟子さんと共同で仕事を引き受けるときに楡井浩一という名前を使っていたのである。

本書も短い納期と大部の翻訳だったがゆえに、東江さんがオーディションで下訳者を募集し、共同で仕事をしたらしい。しかし、一読してわかるとおり、日本語になった文章にはそのような痕跡を見つけることができない。全文章は楡井浩一さん(東江さん)が全責任をもって綴っているからだ。東江さんは作業効率をあげるためだけに下訳者を使っていたのではない。これからの翻訳出版界を背負って立つ翻訳家を育てることも、大切な仕事として心を砕いていたのだ。

その東江一紀さんが2014年6月21日に亡くなられた。62歳の若さだった。ハヤカワ・ミステリマガジン2014年10月号には文芸評論家の池上冬樹さんを筆頭に、翻訳家の河野万里子さん、田口俊樹さん、伏見威蕃さん、布施由紀子さんが追悼文を寄稿している。

その中で池上冬樹さんは、翻訳に一家言もっていて、独特の文体と語彙を駆使して、訳文を読んだだけで翻訳家がわかる人たちをサムライと呼んでいる。もちろん東江さんはそのサムライであり、ものすごい職人でもあったと述懐している。

まさにその通りで、東江さんの翻訳はすぐにそれとわかる。たとえば2010年の「このミステリーがすごい!」で海外編1位になった『犬の力』(ドン・ウィンズロウ著 角川文庫)の翻訳家は東江さん以外には考えられないのだ。悪徳と裏切りと殺戮と怨恨にまみれたメキシコ麻薬戦争がテーマの小説である。上下巻の長編小説なのだが、物語はいつのまにか疾走しはじめる。しかし、全編を通して舞い上がるような軽々しさを感じることがないのは翻訳家の力によるものが大きいのだ。均整のとれた体脂肪率5%の文章とでもいうべきだろうか。

おなじくドン・ウィンズロウの『ストリート・キッズ』(創元推理文庫)や『フランキー・マシーンの冬』(角川文庫)などを楽しんだ人も多いだろう。『キング・オブ・クール』(角川文庫)は東江さんの遺作の一つになってしまった。東江さんより2歳年下のドン・ウィンズロウは健在だ。これからも新作を世に送りだすだろう。それを受け止めるべき翻訳家が先に旅立ってしまったのだ。日本の読者としてはただただ途方にくれるばかりである。

いっぽうで東江さんはノンフィクションにも力を入れていた。『自由への長い道』(ネルソン・マンデラ著 日本放送出版協会)、『イエスの墓』(リチャード・アンドルーズ、ポール・シェレンバーガー著 日本放送出版協会=向井和美との共訳)、『レクサスとオリーブの木』(トーマス・フリードマン著 草思社=服部清美との共訳)、『世紀の空売り』(マイケル・ルイス著 文藝春秋)、『ライアーズ・ポーカー』(マイケル・ルイス著 ハヤカワ・ノンフィクション文庫)、『ブーメラン』(マイケル・ルイス著 文春文庫)など多数の作品があり、ビジネスマンであれば何か一冊は読んでいるかもしれない。

考えてみると、ひとりの作家の作品を20冊以上読んでいることはまれだ。それもクライムノベルからサイエンスのノンフィクションまでという広いレンジは東江作品だけに限られる。この20年ほど東江さんのあとを付いて歩いていたようなものなのだ。そこで、この解説を引き受けるにあたり、東江一紀さんへの追悼の一文にしてよろしいという許可を編集部から得ておいた。そして、新潮社社内でアンケートを取ってもらったのだ。

ある編集者は、ともかく訳文のこなれ具合、安定感、信頼感は尋常ではなく、第一稿の段階で、文章の完成度はもちろんのこと、表記の統一や、ルビの付け方なども、ほとんどこちらが手を入れる余地のないほど行き届いていた、と述懐する。たとえば『インフォメーション』は内容が情報科学だけでなく、物理学や生命科学にも及んだかなりハードなものであったのにもかかわらず、ほとんどそのまま出版しても差し支えないのではというレベルだった、と驚いていた。

アンケートに答えてくれたのは編集者だけでない。『ハイパーインフレの悪夢』(アダム・ファーガソン著 新潮社)などの翻訳家である黒輪篤嗣さんは、東江さんは弟子を育てることにたいへんな情熱を傾けてくれたと感謝している。ユニカレッジという翻訳学校で教鞭をとっていた東江さんは、つねに20本ぐらいの仕事を抱えていたにもかかわらず、一度も休まず、けっして忙しそうなそぶりもみせず、生徒たち以上に授業の「予習」(講師訳例作り)と「復習」(生徒たちの訳文チェック)をし、2時間の密度高い授業を行ったあと、飲み会にも付き合ったのだという。

黒輪さんは当時、東江さんの原文解釈の深さに驚いた。小説の翻訳では、原文の一言一句、作者の意図まで読み取り、どんなに単純な文章や単語でも、なぜ作者はそこでその表現を用いるのかをはっきり解釈してから日本語にしていた、というのだ。そして訳文を書くときは、いつも一文の最後まで、すべて頭の中で考えてから書き、書き直しはほとんどなかったという。

おなじく『ハイパーインフレの悪夢』の共訳者である桐谷知未さんは、東江さんはいつもそのときに取り組んでいる本を心から好きになって、楽しんで訳していると感じていた。本書『人類が知っていることすべての短い歴史』はそのなかでもお気に入りだったという。文系の著者が好奇心だけを頼りに科学の世界を紐解いてみせたことに、大きな意義があるとお弟子さんたちに語りかけていたらしい。

ロマンス小説を得意とする翻訳家曽根原美保さんによれば、東江さんは「翻訳者は日本語の最後の砦にならなくてはならない」という言葉をよく口にしていたという。作家は創作の一環として、独自の言葉や使用法を生み出していくことができるけれど、翻訳者にはそれは許されないということだ。お弟子さんたちには厳しく語法について指導していたという。

さらに東江さんは目だけでなく耳を使った翻訳を求めていた。原文の音やリズムを心の耳で聴き、その有機的な構造を壊さないようにしながら訳すことを教えていたというのだ。なるほど東江さんの訳書は知性と情熱と感覚の素晴らしいバランスの産物だったのだ。だからこそ東江作品として原著者を問わず読み続けてしまったのだ。翻訳家にこのようなファンが付くことは滅多にないことだろう。いまは東江さんのご冥福を祈るばかりである。