おすすめ本レビュー

『壊血病』もつれた糸

鰐部 祥平2014年10月8日
壊血病 医学の謎に挑んだ男たち (希望の医療シリーズ)

作者:スティーブン・R. バウン
出版社:国書刊行会
発売日:2014-08-27
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18世紀、船の大型化と航海技術の進歩により、頻繁に寄港することなく航海が可能なになった。こうしたことにより猖獗を極めた病がある。「壊血病」だ。壊血病とはビタミンC(アスコルビン酸)の欠乏により起こる病だ。壊血病になると身体の結合組織の細胞が変性を起こし、歯茎の腫れと出血、歯がぐらつく、口臭、無気力、倦怠感、古い傷口が開く、接骨した骨が外れる、などの症状があらわれ、放っておけば苦しみながら死にいたる。

当時の船乗りの食事は、腐った肉、悪臭を放つチーズ、カビが生え、虫のわいた乾パンなどといった悲惨な内容で、高カロリーではあったが、新鮮な食糧、とくに野菜とは縁がなかった。船上で口にできる食糧にはアスコルビン酸がほとんど含まれていない。ちなみに健康体の人の体内には900から1200ミリグラムのアスコルビン酸が存在し、一日に必要なアスコルビン酸の量は50ミリグラム、体内のアスコルビン酸が500ミリグラムを切ると壊血病の症状があらわれるという。

この病がいかに深刻であったかは、1763年の『アニュアル・レジスター(政治・文芸年報)』に記された、フランスとの7年戦争におけるイギリス軍水兵の死傷者数を見ればわかる。この戦争で召集された、18万4899人のうち13万3708人が病死、その大半は壊血病による死であったという。戦死者はなんと1512人であったという。膨大な数の犠牲は砲弾ではなく、壊血病によってもたらされたのだ。

新大陸の発見とその富を巡り激しく対立していた当時のヨーロッパにおいて、このような膨大な人的被害をもたらす壊血病は、国家の運命も左右しかねない重大な問題であった。しかし、その一方で階級社会が深く根づく当時において、水夫や水兵といった下層階級出身者の命というものは、非常に安くみられていた。

こうした状況の中、一人の男が海軍の船医見習いとして船に乗り込むことになる。若き日のジェームス・リンドだ。当時、外科医は内科医と比べ、身分の低い人がなる職業であったという。若きリンドは身分の低い外科医見習いとして、社会に出る。厳しい見習い期間を経てリンドは船医に昇格した。そして1747年にソールズベリー号において画期的な実験を行う。

ジェームス・リンドの肖像画(Wikipediaより)

艦隊の中で重症の壊血病患者12人を同じ部屋に集め、同一の食事を同じ量与え、条件を整えた後に、患者を2人ずつ6組に分け、六種類の異なった壊血病薬や食事を与えた。詳細は本書に譲るが、もっとも効果があったのはレモンやオレンジを与えられたグループであった。著者によれば、これは臨床栄養学的に管理された医学史上で初の実験だという。これにより、壊血病が柑橘類に含まれる何だかの栄養分が欠乏して起きる病であるということが判明する。

しかし、リンドのこうした業績は世間にあまり顧みられることは無かった。リンドはその集大成として著した『壊血病論集』で予防医学の重要性を強く説くも、当時の海軍にはそのような考えが欠如していた。また、上流階級を専門に診る医師で、アンソニー・アディントンという人物が激しくリンドの説に反対する。リンドはエディンバラ大学時代からの知人である貴族のチャールズ・ビセットとも折り合いが悪く、彼はリンドの説を攻撃する小冊子を発表する。ビセットは国王ジョージ三世の専門医、海軍軍医長、そして後に王立協会会長に就任する医師、ジョン・プリングルとも親しく、様々な政治的な圧力があったことが窺える。

またリンド自身も晩年には実証的に物事にアプローチする姿勢を失っていた。彼は柑橘類の汁を煮込み、濃縮させることにより長期保存を可能にした「ロブ」というジュースを壊血病薬として開発していた。だが厳密な実験でロブの効能を確かめた形跡がないのだ。アスコルビン酸は不安定な物質で熱に弱く、さらに長期保存することで破壊される。リンドが若き頃と同じような情熱を持ち、厳密な実験をしていれば、すぐロブの効能の薄さに気づいたはずだ。しかし、彼はそうしなかった。このことが、リンドの説に大きな影を落としていた。

リンドの説を否定した人々が唱えた壊血病に関する腐敗、発酵説は今から見ると荒唐無稽な説である。プリングルはヘルマン・ブールハーフェの「腐敗病」説を基に、腐敗を遅らせ妨げる物質が壊血病の進行を阻止すると考えた。それをたたき台にデービット・マクブライトが「固定空気説」という理論を提唱する。身体の腐敗から発生するガス(固定空気)が体の結合剤になると推論し、発酵しやすい食物を摂取し固定空気を補充すれば壊血病が治癒すると主張した。この理論を基に開発したのが麦芽を発酵させて作られた「麦芽汁」だ。

この麦芽汁は王立海軍病院とリンドが医院長を務めるハスラー病院で試された。結果、患者が治癒することなく次々と死亡したため、壊血病患者が麦芽汁を飲むことを拒否する事態にいたる。しかし、王立協会会長のプリングルが麦芽汁を強く擁護する。さらに、海軍も高価な柑橘類を壊血病の治療薬とすることをしぶり、麦芽汁が壊血病薬として浸透していく。

流行の学説とそれを信奉する権威ある人々、そして海軍の官僚主義的な高官たちが、その社会的身分を駆使し、自らの威信を守るため開きかけた真実の扉を再び閉ざしてしまった。

リンドは最晩年に壊血病の治療に関する研究を諦めてしまう。この病が克服されるまでには、クック船長の驚異的な航海と、リンドとクックの成果を丹念に研究し、自身の高い身分を駆使してプリングルたちに戦いを挑んだ医師、ギルバート・ブレーン登場を待たねばならない。ブレーンが壊血病を克服したとき、リンドがソールズベリー号で実験を行ってから48年もの歳月が流れていた。この間にも多くの船乗りの命が壊血病によって奪われ続けた。多くの水兵、水夫の苦難に満ちた短い人生は、壊血病という苦痛によって幕が下ろされた。

プリングルたちが混乱させた、壊血病の予防と治療という難題をブレーンが解きほぐした結果、イギリスはナポレオンとの戦争に際に、海軍による大陸封鎖という戦略的に大きな意味を持つ作戦が可能になった。その結果の手にした勝利により、イギリスは超大国としての道を歩む。

人類は常に新天地を求めて旅を続けてきた。生存を賭け、欲望に駆られ、純粋な好奇心を胸にして。現代の繁栄はこのような先人の旅の上に築かれている。だが、その輝かしい栄光の陰で、多くの名もない人々が命を落としたことを忘れてならないだろう。前進とは常にリスクを伴うものだ。そして、時に社会通念や常識、また為政者たちの惰性が犠牲を拡大させてしまうことがある。現代社会とて、このような事態と無縁ではないはずだ。

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