HONZ客員レビュー

『水声』by 出口 治明

出口 治明2014年11月23日
水声

作者:川上 弘美
出版社:文藝春秋
発売日:2014-09-30
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僕が小説を読む時のクセの1つだが、テーマと構成とテクニックを考えながら読むというのがある。この3つを高い完成度で兼ね備えた小説には、そうそうお目にかかれるものではない。それだけに3つが揃った素晴らしい小説に遭遇すると、とても嬉しくなるのだ。

「水声」のテーマは、おそらく、現代人の孤独(寂寥)である。動物である人間は長い間群れの中で次の世代(子ども)を育てながら生きてきた。それが動物としてごく自然な姿だった。戦後のわが国でも、核家族が中心になったとは言え、ほとんどの家族には子どもがいたのである。翻って現在の日本では、単身世帯が実に1/3を占めカップルと子どもの世帯は3割を割り込んでしまった。主人公の都と陵の1つ違いの姉弟も、1人暮らしで50代半ば。おそらくこの先もこの2人が子どもを持つことはないのだろう。2人はまた親の家で一緒に暮らし始めるのだった。谷崎潤一郎賞に輝いた著者の佳作「センセイの鞄」でも、現代人の孤独が丁寧に描き出されていたことを思い出す。

では構成は?一言で言えば、本書の基本はマトリョーシカのような入れ子構造にあるのではないか。実は兄姉であるパパとママ、その子どもである都と陵の姉弟。パパとママの家、その中にある南京錠の部屋。この部屋からは「かち。かち。かち。」と時計の音がする。この部屋は時計部屋、すなわち、時間を司る、クロノスの部屋なのだ。もうすぐママが死のうという時、元の自分の部屋(時計部屋)に泊まっていた陵を都は訪ねる。2人の実父であるらしい武治さんがいつも1人で頻繁に訪ねてくる。武治さんはママの実家(紙屋)に修行に入り(都の)祖父に気に入られて跡を継いだのだ。祖父も1人でよくしもた屋を訪ねていた。そしてそこでママが生まれたようなのだ。祖父と武治さんも入れ子構造になっている。いつもはなやいでいる(男たちに好かれる)ママと地味な都もそう。都はママの死後、よくママの夢を見るようになる。そして、何よりも都と陵という名前そのものが生と死の入れ子構造を暗示しているのではないか。

このように大小無数の入れ子構造を持つ小説を一気に読ませる著者のテクニックは大したものだ。抑えた筆致と正統的な文体にも関わらず、リアリティを自然に醸し出す描写が抜群に上手いのだ。「むしろわたしは、思いわずらうのが楽しいのではないだろうか。まるで、できかけのかさぶたを何回もはがしては、その痛みと痒みを楽しむ時のように。」思わず脱帽してしまう。

2014年の春、家鳴りがして天井が落ちる。デウス・エクス・マキナ(機械仕掛けから出てくる神)の技法を借りて、ここでこの小説を終わらせることもできたように思われる。しかし敢えて著者はそうはしなかった。2人は、近くのマンションの2つの空き部屋で生き続ける。そのことで、リアリティがいや増す。「夏の夜には鳥が鳴いた。短く、太く、鳴く鳥だった。」という一文で始まる本書は、さわやかで深い余韻を残して次のように終わる。「また夏がくる。鳥は、太く、短く鳴くことだろう。陵の部屋を、今日はわたしから訪ねようと思う」。ウロボロスは完結したのだ。

出口 治明
ライフネット生命保険 CEO兼代表取締役会長。詳しくはこちら

*なお、出口会長の書評には古典や小説なども含まれる場合があります。稀代の読書家がお読みになってる本を知るだけでも価値があると判断しました。