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『明治の「性典」を作った男』謎の医学者・千葉繁を追え!

栗下 直也2014年12月10日
明治の「性典」を作った男: 謎の医学者・千葉繁を追う (筑摩選書)

作者:赤川 学
出版社:筑摩書房
発売日:2014-09-11
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自慰行為は体に悪いのか。馬鹿になるのか。思春期の男子ならば一度は頭をよぎったはずだ。インターネットが普及した現代では、「自慰 毎日 馬鹿」などと検索すればたちまち良くも悪くも多くの情報に接することができるが、残念ながら、近年までそのような利器はなかった。明治時代以来、欧米から流れ込んだ言説に惑わされ、悶々と時を過ごした若者は私を含めてどれくらいいただろうか。「そんな奴、いないのでは」と現代っ子からは突っ込まれそうだが、自慰行為は悪だと抑圧され、若者がビニ本を前に自主規制する時代があったのだ。その流れを形成する端緒となったのが「造化機論」だ。

 
聞きなれぬ言葉であるが、「造化機」とは生殖器のことを指す。造化機論は性器論、生殖器論である。この「造化機論」が当時の日本人の性感覚を決定づける「性典」として一大旋風を巻き起こしたのだ。現在、存在が確認されるだけでも明治期に300冊以上の造化機論が出版され、中でも米国の医学書を翻訳して1875年に出版された『造化機論』は性を初めて科学的に解釈した性科学書の先駆けとして位置づけられる。とはいえ、内容は自慰行為の有害性を説いたり、性交の快楽は電気に由来するという「三種の電気説」を説いたり。現代からみればトンデモ本に分類されるのだが、性の交わりと言えば春画を楽しんでいた庶民からすれば、性交が科学的に解明された衝撃は黒船来航に勝るとも劣らなかったことは間違いない。実際、わかりやすく書き直した『通俗造化機論』を含めた『造化機論』四部作は『学問のすすめ』に劣らぬ大ベストスラーになったとか。そしてこれらの翻訳者こそが謎の人物、千葉繁なのである。
 
医学に素養があり、英語に堪能。江戸から明治に年号がかわったばかりであることを考えれば、自然と興味がわく。しかし、わかっているのは本の奥付に記されている当時の住所だけ。著者はポルノグラフティをテーマにした修士論文を書き終え、「ポルノの次は、それと切っても切れないオナニーのことでも研究するか」という程度の軽い気持ちだったと千葉繁研究につながる一歩目を振り返るが、軽い気持ちでは読みこなせない膨大な資料を丹念に紐解く。「人探しってこうやってするのね」と唸ってしまう。歴史を超えた尋ね人の旅はミステリー小説さながらで、ページを捲る速度も自然と上がる。
 
神奈川県の公務員であったこと、業務の傍ら翻訳作業に従事していたこと、元々は浜松藩の生まれで藩医であったこと、明治維新で徳川の譜代藩であったため転封され、千葉県鶴舞市に移ったものの藩の解散で職を失ったこと。そこから得意の語学で身を立てること。バラバラのパズルを組み合わせることで、激動の時代に翻弄された人生が見えてくる。
 
千葉繁は無名のひとりの医学者であり翻訳者である。だが、著者は千葉の人生を辿る旅を通して、明治維新で「勝ち組」になれなかった藩の中級武士の没落や近代化と西洋化が急速に進むことで取り残された者の厳しさを浮き彫りにする。一大ブームになり性観念論としては後世に影響を与えた『造化機論』がその存在が時代から葬り去られたのも内容が現代から眺めればトンデモだからではないと指摘する。千葉が小藩出身であったことや、明治政府下で『造化機論』の原典である米国医学でなくドイツ医学が主流になることで単なる淫書として敬遠されるようになった学閥闘争が横たわる。敗れざるものの悲哀を我々はすぐに忘却してしまう。
 
著者はなぜ我々は忘却するのかと問い続ける。確かに人間は過去を忘れてしまう。だからこそ、掘り起こす重要性も説く。千葉繁という在野の医学者を通じて19世紀後半の日本社会の一面を掘り起こしたように。タイトルや本書中の軽妙な文章と対照的に、投げかけは重い。