市場均衡、合理的期待、効率的市場仮説…。これまでの経済思想では、もはや現実の世界を説明することは出来ない。物理学の視点から、経済学の常識へ果敢に切り込んだ『市場は物理法則で動く』。本書の翻訳者解説と、物理経済学の歴史的な経緯を紐解いたソニーCSL研究所・高安秀樹氏による解説記事「経済物理学の誕生と発展」を併せて掲載いたします。(HONZ編集部)
「『今回は違う(This time is different)』というのは、4つの単語からなる言葉の中で最も高くつくものだ」。これは、バリュー投資家として有名なジョン・テンプルトンが残した株式相場の格言である。
リーマン・ブラザーズ破綻直後の2008年9月、ある新聞コラムは、このテンプルトンの格言を引用してこう書いている。「テンプルトンが戒めた『今回は違う』という風潮は、バブル崩壊の初期に広がる。崩壊の怖さを知っているのに、いざ直面すると事実を認めたくなくなる投資家の希望的な心理だ。『銀行が損失を隠し続けた日本とは違う』。4月、米議会で90年代の日本の金融危機との比較を問われたバーナンキ米連邦準備理事会(FRB)議長の発言だ。この油断が対応の遅れた伏線ではなかったか」(2008年9月30日付 日本経済新聞朝刊「一目均衡」より引用)。
過去に何度も起こってきたような危機的状況を目の前にしても「今回は違う」と考える背景には、経済システムは本質的に安定的で自己調整されており、常に均衡状態に向かうものだという、経済学の考えがあるようだ。本書の冒頭では、2010年春に起こったフラッシュクラッシュ(株価などが数分という短 時間で瞬間的に急落する現象)を取り上げている。この原因は、通常の取引から始まった「正のフィードバック」だった。正のフィードバックとそれによって生じる不安定性は、「超新星から惑星の生態系、地球の気候、さらには地球の地殻の動き」まで、自然界ではいたるところにみられる。
しかし、米国証券取引委員会(SEC)などによる最終報告書では「正のフィードバック」という言葉は使われなかった。経済学、特にファイナンス論の基礎である「均衡」という概念に反するからだ。そうした現在の経済学は、「中世の物理学」に等しいものであり、必要とされるのは、自然界にみられる「非平衡系」の概念を取り入れた「不均衡」の経済学だ。そう著者は主張する。
本書『市場は物理法則で動く』の著者マーク・ブキャナンは、物理学で博士号を取得後、『ネイチャー』 『ニューサイエンティスト』等の編集者を経て、現在はサイエンスライターとして活躍している。これまでに、『歴史は「べき乗則」で動く』(早川書房)、『複雑な世界、単純な法則』(草思社)、『人は原子、世界は物理法則で動く』(白揚社)という3冊の著書があり、非平衡物理学や複雑系科学、ネットワーク科学などを中心的なテーマとしてきた。
4冊目の本書でも、それらがキーワードであることは変わらない。しかし本書のトーンは、今までの著作とはやや違っている。これまでは、自身の専門である物理学を土台に、「歴史物理学」や「社会物理学」といった新たな視点から人間や社会を読み解くことを試みてきた。一方、経済物理学がテーマの本書では、市場均衡や合理的期待、効率的市場仮説といった、主流派経済学の中心的な思想がいかに現実の世界を説明できていないかという、経済学そのものの問題に鋭く切り込んでいる。
著者が本書で経済学に軸足を置き、主流派経済学に対してときには相当に厳しい批判を展開する背景にはおそらく、前作(2007年)の発表後に米国の住宅バブル崩壊を発端として発生した、世界金融危機の衝撃があるだろう。著者は現在も、経済メディアのブルームバーグニュースが運営するサイト「ブルームバーグ・ビュー」に経済を中心としたコラムを連載しているほか、2011年から「The Physics of Finance」(ファイナンスの物理学)というブログを運営するなど、本書刊行以後も経済物理学の分野で精力的な執筆活動を続けている。
もちろん著者は、やみくもな経済学批判をしようというのではない。まずは経済学やファイナンス論の歴史を振り返り、経済学が現在の形になるまでの経緯をじっくりと考察している。そして、物理学を初めとする科学分野の成果を経済学に取り入れることについて、具体的な提案をしていることにも注目すべきだろう。
例えば、天気予報で使われている「アンサンブル(集団)予報」(初期値などの条件が少しずつ異なる数値シミュレーションを多数おこない、その結果の平均を取る手法)を、経済学やファイナンス論にも応用することを考えている。具体的には、金融システムに存在する複雑な相互作用ネットワークの広がりをシミュレーションすることで金融市場の将来を予測する、国や地域レベルの「金融予測センター」だ。
この訳者あとがきを書いている時点では、ギリシャがIMFへの融資返済の期限を迎え、事実上の債務不履行に陥ったことが報じられている。中東情勢も混迷を極め、世界の先行きを見通すことは非常に難しい。そうした不透明な状況のなかで、金融危機は今後も起こるだろう。それを確実に予測することはできないかもしれない。しかし予測し、回避できる問題もある。それには、ほかの科学の理論を取り入れた、新たなツールが必要とされるのである。
アルゴリズム取引が全取引の50%以上を占め、光速に近いスピードでの高頻度取引がおこなわれている現在、もはや人間の直観にもとづく知識だけでは経済の未来を見通すことはできない。均衡という幻想を捨て、科学が既に蓄積してきた非平衡(不均衡)という概念を取り入れることは、経済学とファイナンス論にとってもプラスになる。私たちはそうした変革の時代にいるというのが、著者の見方である。
2015年夏 熊谷 玲美(翻訳家)
次ページ以降、ソニーCSL(コンピュータサイエンス研究所)・高安秀樹氏の解説「経済物理学の誕生と発展」を特別に掲載いたします。
解説――経済物理学の誕生と発展
ソニーCSLシニアリサーチャー・高安 秀樹
「市場を支配している物理法則はなんだろう」。これは、私自身が1980年代の後半に市場変動の研究 を始めたときから、現在に至るまで一貫して抱いている疑問である。物理学は物質の科学ではないのか、といぶかしく思う方もいるかもしれないが、最先端の物理学は物質の究極の姿を研究するだけでなく、大げさに言えば森羅万象が研究対象である。実際、日本物理学会には「社会経済物理」というセッションがあり、多数の物理学者が、市場だけでなく、企業の取引関係の分析やブログの書き込みデータの解析などの研究発表をしている。しかし、物理学と社会経済との関係は、実は、物理学そのものの誕生時にまで遡る。
物理学の研究方法を確立させたのは、いわゆる科学革命の4人の立役者である。その4人とは、1000年以上信じられていた天動説に疑問を呈し地動説を唱えたコペルニクス、物体の落下の実験を行い、コペルニクスの本に触発されて自作の望遠鏡で惑星や衛星の詳細な運動を観測したガリレオ、惑星に関する膨大な観測データを分析し3つの経験則を見出したケプラー、そして、ケプラーの三法則をより基本的で普遍的な万有引力の法則と力学法則から導出したニュートン、である。
ある未知なる現象に直面したとき、まず常識を捨て、実験や観測を積み重ね、データから経験則を確立し、すっきりとした理論を作る、この一連の科学的研究手法そのものを、物理学者は「物理」とよぶ。ちなみに、「物理学」と翻訳されるphysicsという言葉は、理屈を究める学問として江戸時代末期には「究理学」ともよばれていた。欧米では、physics は science(科学)とほぼ同義語として扱われており、研究対象を物質に限定しているわけではない。
この科学革命の立役者らが、実は、経済に極めて重要な寄与をしていたのは、あまり知られていない。
16世紀、それまで数百年の間安定していたヨーロッパの経済が、インフレによって大混乱に陥った。このとき、インフレの原因が、航海技術の発展によって新大陸から持ち込まれた大量の金や銀のせいであることを突き止めたのは、コペルニクスだった。彼は、通貨の役割を果たしている金や銀の量が増加するとインフレが起こることを論文にまとめたが、その論文は、最も古いインフレに関する論文として経済学でも高く評価されている。コペルニクスは、元祖物理学者であり、元祖経済学者だったことになる。
17世紀になり、ガリレオは、当時流行っていたサイコロギャンブルの経験則(サイコロを三つ投げたとき、目の和が九になる場合よりも10になる場合の方が多い)を説明するために、場合の数を数え上げるという確率論の基盤となる考え方を見出している。ギャンブルも経済活動の一つであるとすれば、経済現象を確率論の視点から解析する先駆的な研究と言える。
同じく17世紀後半、晩年のニュートンは造幣局長官に転身し、英国経済の発展に大きな貢献をした。 金と銀がともに世界的な通貨だった時代に、世界に先駆けて金本位制を導入し、贋金防止のために硬貨の側面の周囲にギザギザを彫り込む技術を確立している。彼は、超一流の物理学者であると同時に、微積分を発明するなど数学者としても超一流だったが、さらに、経済でも歴史に名を残すほど超一流の実務家だったのである。
ニュートンの力学理論の正しさは、ハレーによる彗星の出現周期の予測によって実証された。そのハレーは、彗星の軌道計算をしただけでなく、当時初めて得られた国勢調査の結果から年齢ごとの人口分布のデータを分析し、そこから、老後の生活を支えるための仕組みである年金制度を考案し、英国を社会福祉先進国にする貢献をした。また、年齢ごとの死亡率に基づいた生命保険制度も考案した。現在、年金制度や生命保険制度は、社会を安定させるための柱になっているが、常識に囚われずにデータに基づいて数理的に理屈を究めるという物理の考え方が、時代を超越したハレーの発想の源だったのだ。
このように物理学の誕生初期の歴史を知れば、物理学の視点から経済現象を研究するという経済物理学は、極めて自然な成り行きであるのがわかる。物理学は、まず、常識を捨てることから始まるのであるから、いったん経済学の既存の理論は忘れ、先入観に囚われないで、実験や観測とデータ解析により経験則を確立することが物理としての第一歩となる。
本書もまた、経済物理学をテーマにした本である。そこでここからは、この比較的新しい学問分野の成り立ちを、私自身の研究の歩みと共に振り返ってみたい。
1980 年代、当時の私自身の研究は、フラクタル現象に関する物理だった。フラクタルとは、拡大しても縮小しても同じように見える構造や現象の総称であり、身近な例としては、地形の凹凸、稲妻や雲の形状、ガラスが割れたときの破片の分布、樹木の枝の構造など枚挙にいとまがない。フラクタルの概念を創出したマンデルブロの『フラクタル幾何学』という本が、コンピュータグラフィックスの美しさも手伝って世界的なベストセラーとなり、アカデミックな世界にも大きな影響を及ぼしていた。それまで、構造を特徴づける次元という量は整数値しか想定されていなかったが、マンデルブロは複雑な構造の場合には、次元が非整数値をとり、しかも、至る所で微分が定義できない凹凸を持つと主張した。ニュートン以来、微分を最大の道具として様々な現象の解明をしてきた物理学にとって、盲点を突かれたような形で登場したフラクタルは、大きな衝撃だった。
私は、最先端の研究テーマとしてフラクタルを物理学的に理解する研究を進める中で、乱流、放電パターン、脆性破壊、河川地形、地震、エアロゾルなどに関して、なぜどのようにフラクタル構造が生じるのかについて自分なりに納得できる結果を得た。そして学位論文をまとめ、フラクタルの単行本も執筆し、ポスドクで在籍した京都大学を経て、神戸大学の地球科学科に助手として就職した。そのようなとき、87年に、フラクタルの元祖であるマンデルブロの所属するイェール大学に日本学術振興会の海外特別研究員として滞在する機会を得た。
米国に渡り、マンデルブロと直接話をする中で、彼がフラクタルという概念を閃いたのは、市場価格の変動データの解析をしていたときだったと知った。また、「フラクタルを通して広い分野の研究をされているが、自分の専門を既存の分野からひとつ選ぶとすると何を選びますか?」という私の質問に対し、マンデルブロが「経済学だ」と即答したことからも、経済現象の重要性を教えられた。それまでの自分は、物質の視点でしか見てこなかったので不安はあったが、こうした経験に後押しされ、フラクタルの源流とも言うべき市場変動の解析に取り組もうと決心した。
市場変動の研究を始めるにあたって、まず、市場のデータを解析しようと思ったが、当時はまだ精度の高いデータが整備されておらず、入手できなかった。自分は経済に関しては全くの素人だったので、何がわかっていて何がわかっていないかを知るために、経済の専門家と共同研究をする必要性を強く感じた。
知人がほとんどいないイェール大学ではあったが、幸い、日本人会などのつながりから、経済学科の浜田宏一教授と出会うことができた。市場価格変動をフラクタルの視点から研究したいという自分の研究の狙いを説明し、どういう文献を勉強すればよいかを尋ねたところ、「経済学ではゲーム理論的に考えるのが主流であるが、市場参加者が皆合理的な判断をすると想定すると、結果としては市場価格が一つの値に収束することになり、そもそも不安定に変動すること自体、うまく説明ができていない」ということだった(この指摘は本書でも何度か登場する)。それならば、文献を学ぶ必要はあまりなく、市場価格がランダムに見えるような変動をすること自体を問題として、それを説明するような研究ができると考えた。データがないなら実験をするしかない。だとすれば、ディーラーの行動をプログラムで記述し、コンピュータの中に仮想的な市場を作り、そこで数値実験をしたらよいのではないか。コンピュータモデルで現象を解析するのは、それまでの自分の研究スタイルだったので、この方針で市場を物理として研究できると期待が膨らんだ。
浜田先生との議論を経て、仮想市場の基本形ができあがってきた。全ての市場参加者は、安く買って高く売ることで差額として利益を得ることを目的としていると考える。ディーラー達は、それぞれが戦略を持ち、買いたい価格と売りたい価格を想定する。彼らの希望価格を集めたものは「板情報」とよばれ、最も高い買値と最も安い売値がちょうどぶつかったときに取引が成立し、市場価格が確定する。取引に関わったディーラー達は満足して売値と買値を付け替え、また、確定した市場価格を知ったディーラー達も、それぞれの戦略に応じて売値買値を付け替える。最高買値と最安売値がぶつかるまでは、市場取引が行われない中で、ディーラー達は売値と買値を付け替え続ける。このような基本的な枠組みをコンピュータの中に作れば、あとは、ディーラー達の戦略をいろいろと変えて実験を繰り返せばよい。
複雑な設定はいくらでも考えられるので、まずは、最も簡単で基本的な場合を想定するのが、この種のシミュレーション研究の基本である。これ以上簡単化できないというほど基本的な設定から出発し、そこに1つずつ新たな要素を導入し、その差分から、新たな要素の持つ効果を明らかにしていくのである。
例えば、それぞれのディーラーが、資金が少ない極限として、株を1つ持つか持たないかという簡単な状況を想定し、株を持つディーラーは売値を初めは高く設定し、取引ができるまで次第に値段を下げていくようにし、株を持たないディーラーは逆に買値を初めは安く設定し、買えるまで少しずつ値を上げていくようにした。取引が成立すれば、売り手と買い手は入れ替わる。ディーラーが2人しかいない市場では、容易に想像できるように、売り手と買い手は取引のたびに交互に立場を交換し、また、市場価格はほぼ一定値に収束することが確認できた。
ここまでは、経済学の予想する範囲である。しかし、ディーラーを3人にすると、おもしろい現象が現れた。3人のうち、どの2人が取引をするかが毎回予想できないように入れ替わり、結果として、市場価格も予測できないような変動を起こしたのである。取引をするかしないかという相互作用は、数学的には 強い非線形性を持ち、また、強い非可逆性も持つ。その結果として、わずかな条件の違いを増幅するカオスのメカニズムが働く。そこから、ひとりひとりのディーラーの戦略は未来が1通りに決まっているような決定論的ルールに従っていても、結果としての市場価格の時系列は、予測不可能な変動になることがわかった。また、直前の市場価格の変動に比例するように近未来の市場価格を予測して売値買値を付ける「トレンドフォロー」という効果を導入すると、価格のゆらぎが大きく増幅され、ひとりでに暴騰や暴落に相当する価格変動も現れることもわかった。
市場変動に関する基本的な特性を解明できたという自信があったので、さっそくこれらの成果をまとめ、物理学では最も権威のある「フィジカル・レビュー・レターズ」誌に投稿したが、想定外の結果になった。「この原稿が扱っているトピックは物理ではないので、別の雑誌に投稿するように」と言われ、 査読にも回らないで門前払いになってしまったのである(「ネイチャー」誌を舞台にした同様の苦労のエピソードが本書にも見られる)。この雑誌には、それまでフラクタルの研究論文を幾つも掲載していたので、査読に回ればおもしろさを説得する自信はあったのだが、門前払いでは取り付く島もない。とりあえず、論文にすることは焦らずに、研究を深めていくことにした。
このテーマに関しては、マンデルブロとも議論を深めたいと思っていたのだが、フラクタルのブームがあまりにも高まり、マンデルブロは世界中を講演旅行で飛び回るようになり、議論をする機会を持てなくなっていた。そのこともあり、私は研究場所をイェール大学からボストン大学に移した。ボストン大学の物理学科には、私を受け入れてくれた数理モデル解析を専門とするレドナーや、統計物理学の大御所的な存在であるスタンレー、また同年代の研究者が多数おり、活気に溢れていた。ゼミで話をする機会をいただいたときに、最新の仮想市場の解析に関する話をしたが、スタンレーから、詳細よりも、「なぜ経済を研究するのか」と執拗に問われたことを記憶している。ボストン大学に滞在していた間にスタンレーと共同研究することはなかったが、この時の会話が一つのきっかけになって、数年後、スタンレーは経済物理学の論文を量産するようになった。
ほぼ二年間の米国滞在が終わり、神戸大学に戻り、大学院生にも市場モデルのシミュレーションを手伝ってもらい、スタンレーが編集をしている物理の雑誌、Physica Aにやっと論文を掲載することができたときには、92年になっていた。実はこのとき、同じ雑誌に、スタンレーのもとで大学院生として研究をしていたマンテーニャが株式市場のデータを分析した論文を掲載しており、これら二つの論文が、黎明期の経済物理の論文として評価されている。
95年、マンテーニャとスタンレーが、「ネイチャー」誌に、市場価格の変動の解析に関する論文を掲載し、物理学者が経済の研究をすることに注目が集まるようになった。のちにスタンレーに聞いたのだが、彼らも初めは、物理の論文として「フィジカル・レビュー・レターズ」誌に投稿したが、トピックが物理ではないという理由で門前払いされたため、書き直してネイチャーに載せたということだった。
こうして、経済に関係した研究をする物理学者が次第に増加し、97年には、ブダペストで、経済物理学(Econophysics)を主題とする国際会議が初めて開催された。参加者は総勢60名程度、日本からは自分も含めて3名だけの出席だったが、経済物理学という分野名を冠した第一回の国際会議であり、新しい分野の誕生という高揚感を皆が感じる印象深い会議になった。本書に名前が出てくる研究者の中には、この最初の国際会議に参加した同期生が多数おり、今でも国際会議などで会うと、第1回の国際会議のことを懐かしく語り合う。
97年は、もう一つの意味で、経済物理学にとって重要な年だった。それは、それまで門戸を閉ざしていた「フィジカル・レビュー・レターズ」誌に、ちょうどこの会議に参加していた日本人三名による経済物理の論文が掲載されたからである。表だって経済をトピックとして挙げると、また門前払いになることが想定されたので、今度は戦略的に、抵抗率が時間とともに変化する電気回路という物理学のど真ん中の問題を議論の中心に置き、そこにベキ分布というフラクタル性が発現するメカニズムがあることを数理的に示し、最後に、それと同じメカニズムが市場変動のベキ分布の説明に使える、という論法にした。この論文以降、市場変動を堂々と議論する論文が門前払いを受けなくなり、「フィジカル・レビュー・レターズ」誌に経済物理の論文が多数掲載されるようになった。着想からおよそ10年かけて、ようやく新しい研究分野が物理学者らに受け入れられるようになったことになる。
その後、経済物理学の研究者の数も増え、経済学者とのつながりも深くなり、また、ビッグデータがらみで情報学の研究者や、統計解析の専門家などもこの分野の研究に絡んできて、様々な研究成果が蓄積されている。その一部は、本書の中でも取り上げられているが、それは氷山の一角に過ぎない。そこで、本書のテーマである市場に関する研究として、ディーラーモデルのその後の発展とPUCKモデルについて、是非この場を借りて紹介しておきたい。
ディーラーモデルはその後、着実に進歩し、現在では、通常の市場の変動の基本的な特性はほぼ全て再現できるようになり、また、日銀の介入などの非常に特殊な状況での市場変動も、モデルのパラメータを調整することで、ほぼ再現できるようになっている。例えば、介入のタイミングを変えることで、介入の効率がどの程度変わるか、というような問題を数値シミュレーションによって解くことができる。
現実の市場変動を説明するために最も重要なディーラーモデルの特性は、トレンドフォローである。例えば、バブルのように価格が上昇を続けるとき、その上昇が続くことが保証されているならば、そのトレンドにのって売買をすることでディーラーは利益を上げることができるので、トレンドフォローは合理的である。一方、トレンドが反転するのがわかっているならば、トレンドフォローとは逆の、逆張りと言われる戦略にすることが合理的である。問題は、トレンドがいつ反転するのかを誰も事前には知らないことで、そのためにディーラー達は、相互の疑心暗鬼の中で、トレンドフォローと逆張りの戦略を随時切り替えているのが 現実の市場の姿である。仮に、市場が純粋にランダムウォークに従うならば、売買による利益は見込めないので、手数料のかかる売買をしないことが最良の戦略となり、市場は流動性を喪失することになる。ディーラーが市場変動はランダムウォークではないと信じるからこそ、市場の取引が活発になるのである。
市場の中のトレンドフォローの強さを市場価格の時系列から定量的に評価できるようにしたのが、PUCKモデルである。PUCKとは、Potentials of Unbalanced Complex Kinetics(不安定複雑動力学ポテン シャル)の略で、通常のランダムウォークモデルに一つのポテンシャル項を付け加えるだけで、市場変動の特性のほとんど全てが記述できるようになる非常に優れた数理モデルである。このモデルを用いると、市場価格の変動が示すフラクタル的特性だけでなく、ボラティリティ・クラスタリングや暴騰や暴落、さらには、インフレやハイパーインフレのようなマクロなスケールの現象も統一的に理解することができる。特殊な場合として、ノーベル経済学賞の対象となったARCHモデルも包含する懐の広いモデルであることがわかっており、リアルタイムで市場の時系列データを分析することにも使われている。現在、金融市場で取引をする実務家にとってのプラットフォームであるブルームバーグ端末から、アプリの一つとして、このPUCKモデルを使って自分が関心を持つ市場の状態を分析できるようになっている。経済物理学の成果は、既に広く実務で応用される段階に入っているのである。
もちろん、経済物理学の研究は市場変動以外にも広がっている。実務にも役立つレベルになっている事例として、企業の取引ネットワーク解析による成果を紹介しよう。企業の売上や成長率の分布が正規分布ではなく、フラクタル性を有するベキ分布に従っていることは、経済物理学の初期の段階から知られていたが、最近、企業間の取引関係のネットワーク構造が観測されるようになり、その分野の研究が大きく進展している。例えば、帝国データバンク社は、国内約100万社の企業の取引相手を一社一社丁寧に調べ上げ、どの企業からどの企業にお金が流れるのか、そのネットワークデータを蓄積している。このビッグデータを丁寧に分析して経験則を見つけ出し、さらに、その経験則を満たすような数理モデルを構築すると、ネットワーク構造だけを与えただけで、それぞれの企業の年間売上額や企業間の取引金額をおよそ推定できることがわかってきた。この発見は、既存の経済学の企業に関する研究の常識を超えたものだが、既に、内閣府がホームページとして公開しているビッグデータ解析ツールRESAS(地域経済分析システム)の中で使われている。ある地域に流れ込んでくるお金がどの地域から流れ出ているのかを推定する必要があるとき、この企業ネットワークモデルを使うと、欲しい量を推定することができるからである。
これ以外にも、この企業データは、いわば惑星の観測データのような宝の山であり、東京工業大学帝国データバンク先端データ解析共同研究講座を中核に、日々、企業の物理に関する研究が進められている。
社会の高度情報化によって、あらゆる所でビッグデータ解析が必要とされる時代になってきたが、経済物理学はビッグデータ解析の先駆的成功事例を多数生み出しており、今後はさらに、実務への応用を視野に入れた研究が進むと期待している。
そのような環境の中で、私が今必要だと考えているのが「市場変動観測所」である。気象観測所や地震観測所と同じように、市場変動を客観的に観測し研究する公的な機関を作り、その観測データを公開することで市場の物理が大きく発展し、その成果として、社会を安定に豊かに維持できるようになると考えているからだ。本書でも、政府が投資する金融予測センターの設立が必要だという主張がされているが、全く同感である。このプロジェクトは、日本学術会議が重要と認めた第22期学術の大型研究計画に関するマスタープランの中には選ばれてはいるが、実現のために必要な数10億円という金額の予算化ができていない、という段階である。
科学革命の源となった惑星の観測は、莫大な利益を生む源泉である航海技術の必須項目として発展し、その観測データは長い間公開されず、天体モデルも国家的な機密事項だった。しかし、そのデータから普遍的な法則が見出され、モデルが社会に広く使われるようになって、研究成果やモデルを秘密にして個別の利益を狙うよりも、公開して社会全体の利益をめざす方が有意義であると社会的に認識されるようになり、天文台が各国に建設され、私たちの宇宙に対する理解が深まった。残念ながら、今はまだ、市場データの解析をするというと、「それでどれくらい儲けられるのか」というようなレベルの返事が返ってくる ことが多い。しかし、広く長い視野に立てば、膨大な市場データを科学的に分析することで、市場の基本的な特性が理解され、どのようにすれば市場を安全安心に誰もが使えるようにできるのか、社会の中のお金を有効に活用するにはどうしたらよいのか、という万民の利益につながるような研究成果が出てくるに違いないと私は期待している。
経済物理学の種が撒かれてから芽が出るまでに10年、そこから実を結ぶまでにさらにおよそ10年かかった。この研究が本当に社会の役に立つようになるには、もう少し粘り強く研究を進める必要がある。
(ソニーCSLシニアリサーチャー・明治大学先端数理科学研究科客員教授)