HONZブックマーク

【連載】『世界の辺境とハードボイルド室町時代』
第1回:かぶりすぎている室町社会とソマリ社会

集英社インターナショナル2015年8月12日

8月26日発売の『世界の辺境とハードボイルド室町時代』は、人気ノンフィクション作家・高野 秀行と歴史学者・清水 克行による、異色の対談集である。「世界の辺境」と「昔の日本」は、こんなにも似ていた! まさに時空を超えた異種格闘技の様相を呈す内容の一部を、HONZにて特別先行公開いたします。第1回は「高野秀行氏による前書き」と「かぶりすぎている室町社会とソマリ社会」について。(HONZ編集部)

世界の辺境とハードボイルド室町時代

作者:高野 秀行、清水 克行
出版社:集英社インターナショナル
発売日:2015-08-26
  • Amazon
  • honto
  • e-hon
  • 紀伊國屋書店
  • 丸善&ジュンク堂
  • HonyzClub

はじめに by 高野 秀行

私はふつうの人が行かないアジアやアフリカなどの辺境地帯を好んで訪れ、その体験を本に書くという仕事をしている。こんなことで生活できるのはありがたいと思うが、一つ困るのは話し相手がいないことだ。

たとえば、ここ5年ほど通って取材を行っているアフリカのソマリ人。彼らは数百年前から続く伝統的な社会システムを現在でも維持しており、それに従って内戦も和平も恋愛 も海賊行為も行われている。面白くてたまらないのだが、ソマリ人が主に暮らすソマリアやソマリランドは数多くの武装勢力が群雄割拠する危険地帯と見なされているがゆえに、 日本には専門とする研究者もジャーナリストも存在しない。

結局、私が一人で細々と取材し、相談する相手もないまま考えを巡らせている。これではなかなか知見が深まらないし、淋しい。「ソマリ人の復讐の方法って徹底してるよね?」 と言えば、「そうそう、あれはすごいよね」と打てば響くように返してくれる「同好の士」 が欲しいと常々思っていた。  

そんなとき、ドンピシャの話し相手が想像もしない方角から現れた。

日本中世史を研究している明治大学教授・清水克行さんだ。

清水さんの著作を読み、室町時代の日本人と現代のソマリ人があまりに似ていることに驚いた私は、縁あって清水さんご本人と直接お会いする機会を得たのだが、ソマリ人はもとより、アジア・アフリカの辺境全般に過去の日本と共通する部分が多々あるということを発見、あるいは再認識し、ほとんど恍惚状態となった。

何しろ、私が「ソマリアの内戦は応仁の乱に似てるって思うんですけど、どうですか」 などと、誰にも打てない魔球レベルの質問を投げかけても、清水さんは「それはですね ……」と真正面からジャストミートで打ち返してくれるのだ。

同席していた編集者の女性に後で「高野さん、あのとき目がハートマークになってましたよ」と笑われたほどである。私としては長年探していた青い鳥がすぐ近くにいたうえに、その青い鳥が実は黄色かったというくらいの衝撃であり、予想外の喜びだった。最初は素面で、途中から居酒屋に移って日本酒を飲みながら、都合5時間もしゃべり倒した。後半は何をしゃべったか記憶がない。

当初はこれを仕事にしようなどとは毛頭思っていなかったが、その編集者が気を利かせて私たちのおしゃべりを録音し、後で文字に起こしてくれた。読むと意外に面白い。素面の部分と酔っ払っていた部分の区別がつかなかったのにも驚いた。最初から異様にテンションが高かったのだろう。

好奇心旺盛な清水さんもこの奇妙な会話録を面白がってくれ、「もっと話を続けて対談本をつくりましょう」ということになった。そしてできたのが本書だ。

話題は多岐にわたっている。タイやミャンマーの話もあれば、日本の古代や江戸時代にも飛ぶ。酒や米、国家やグローバリズム、犬や男色にも及ぶ。でも、清水さんと話していて興奮するのは、それが単なる雑学に終わらないことだ。

今まで旅してきた世界の辺境地ががらりと変わって見えるのだ。

いくら自分の目で見ても、アジアやアフリカの人々の行動や習慣は、近代化が進んだ都市に住む外国人の私にはなかなか理解できない。だが、日本史を通して考えれば、「あ、 そういうことか」と腑に落ちる瞬間がある。

逆に、清水さんは、「前近代を体感するうえで世界の辺境地の現状はとても参考になる」 と言う。歴史学者といえども、何百年も前に生きた人の考え方や生活を想像するのは難しい。今、実際に生を営むアジアやアフリカの人たちと比べることで、古文書の理解が深まることもあるそうだ。

要するに、「世界の辺境」と「昔の日本」はともに現代の我々にとって異文化世界であり、二つを比較照合することで、両者を立体的に浮かび上がらせることが可能になるのだ。

では、世界の辺境と中世の日本はなぜ似ているのか。どちらも現代日本に比べれば格段にタフでカオスに満ちた世界なのはなぜなのか。

本書を手に取られたみなさんがそんな疑問を感じたら、もうしめたもの。それこそが本書最大のテーマだからだ。

これから始まる魔球対決にみなさんが参加し、私たちの同好の士となってくれることを祈念してやまない。

かぶりすぎている室町社会とソマリ社会

(左)高野 秀行 (右)清水 克行 撮影:円山正史 ※提供:kotoba

高野 室町時代の日本人とソマリ人が似ているというツイートがあって、清水さんの『喧嘩両成敗の誕生』(2006年、講談社選書メチエ)を読んでみたら、本当にすごく似ているんで、びっくりしました。ちょっとかぶりすぎなぐらいですね(笑)。

清水 僕も高野さんの『謎の独立国家ソマリランド』(2013年、本の雑誌社)を読みましたけど、確かに中世の日本人とソマリ人は似てますよね。

高野 それで、何から話し始めたらいいかっていう感じなんですが。清水さんは、中世の魅力っていうのは、複数の法秩序が重なっていて、それらがときにはまったく相反しているんだけれども、その中で社会が成立しているところだっていうふうにお書きになっているじゃないですか。

それはまさに、僕がよく取材に行くアジア・アフリカ諸国の現実と同じなんですよね。表向きは西洋式の近代的な法律があるんだけど、実際には、伝統的というか、土着的な法や掟が残っていて、それが矛盾していたり、ぶつかり合っている。

日本の室町時代も、複数の秩序がせめぎ合っていたということは、本の字面を追っているだけだとなかなか腑に落ちないんですが、アジア・アフリカの現実をイメージして置き換えると、ああ、同じなんだなって、すんなり実感がわくんです。

清水 そう言っていただいて、ありがたいです。日本の中世には、幕府法など公権力が定める法があった一方で、それらとは別次元の、村落や地域社会や職人集団の中で通用する法慣習がありました。それらは互いに矛盾していることもあって、訴訟になると、人々は自らに都合のよい法理をもち出して、自分の正当性を主張していたんですよ。

高野 本当に似ていますよね。たとえばアフリカだと、市場で泥棒が盗みを働くと、捕まえてリンチするんですよね。それもかなり一般的なことで、僕も見ているんですけど。

清水 しょっちゅうあるんですか。

高野 今までに2、3回見ましたね。まさに袋叩きで、もうすごいんですよ。悪くすると、犯人が死んでしまう。騒ぎが大きくなると警察が来るけど、無理に止めようとすると自分たちが危ないから、適当に収まるところまで待っているわけですよ。で、もし犯人が殺されてしまっても、問題にはならないみたいなんですよ。

でも、法律的には絶対にいけないことじゃないですか、殺人ですから。だから、たとえば、その国の大統領なり警察トップなりに聞いたら、「わが国では許されない行為だ」と答えるんでしょうけど、実際にはリンチが行われていて、それを認めないと、 おそらく秩序維持ができないんでしょう。

清水 「本音と建前」というようなこととも、またちょっと違うんでしょうね。「赤信号は渡ってはいけないというルールがあるんだけど、信号を無視する人もいる」といったレベルじゃなくて、「赤信号、渡って何が悪いんだ」という価値観がもう一方にあるんでしょうね。

高野 そうなんですよ。

清水 日本の中世もまさにそうだったんですよ。盗みの現行犯は殺していいっていうルールが庶民の間にはありました。

支配者層である荘園領主は、自分の領内で盗みが起きると、それによって生じるケガレを除去するために犯人を荘園の外に追い出していました。犯人を逮捕したり牢屋に入れたりすると、ケガレが領内に閉じ込められてしまうし、まして犯人の首を斬るとなると、それによってまた新たなケガレが発生してしまうから、犯人を外に追い出して、荘園が形式上、清浄な空間に再生されればいいというふうに領主は考えていたんです。

だけどその一方で、住民の側には、自分の大事な物を盗んだ人物が荘園の外でのうのうと生きているのは納得できないという論理もあって、現行犯殺害を容認する過酷なルールが定められていたんですよね。領主の論理と住民の論理が、矛盾しつつ併存していたんです。

あれはなんなんでしょうね、盗みという行為を人々が激しく憎むのは。日本の中世は「一銭斬り」という言葉があるくらいで「銭一文盗んでも首が飛ぶ」みたいな社会だったんですけど、盗みを単なる財産上の損害とはとらえていなかったみたいなんですよね。

高野 そうですね。アフリカの市場で売られている物なんて、高い物なんてないんですよ。盗むのも、せいぜいタバコ一箱とか、バナナ一房とか、そんなものです。それでも犯人に対してあそこまでやる。

清水 中世の人たちは、人の物を取るという行為そのものが倫理的に許せなかったんでしょうね。ただ、それは、「物が足りないから」というのとも、また少し違う理由なんですよね。

高野 アフリカでもそうだと思います。

清水 やっぱりそうですか。

高野 でも、住民の間にそういう意識があるからこそ、治安が保たれているんだと思うんですよ。僕なんか誤解されていて、「よくそんなに危ない所へ行くね」って言われるわけですよ。でも、辺境って危なくないんですよね、意外に。どこでも一番危ないのは都市なんですよ。そこから離れて、辺境に行けば行くほど安全になっていく。 というのは、顔が見える社会になって、お互いに監視が利いている状態になるからですよね。だから、旅行者とか外国人に対してうかつなことを仕掛けてこないんです。

清水 知らない者同士がすれ違っている社会の方が、やっぱり危ないんですか。

高野 そうなんですよ。だから危険なのは圧倒的に都会ですね。南アフリカのヨハネスブルグとか、ケニアのナイロビとか、ナイジェリアのラゴスとか、そういう大都会になればなるほど危険で、田舎は、警官なんかどこにも見当たらないけど、治安がいい。それは、何か悪いことをしでかしたら、もう大変なことになるから。そこにもう住めなくなるとか。

清水 田舎には自前のルールができている。そこが都市とは違うんでしょうね。 室町時代の本を書いていると、「あの時代は殺伐としていたんですね」とよく言われるんですよ。確かに殺伐とした時代ではあったんですが、東京で電車に乗っていると、現代の都市の方が危ないんじゃないかと思うんですよ。

高野 危ないって思うこと、ありますよね。

清水 ちょっと肩が触れ合っただけで、相手を威嚇するなんてこと、同じ共同体に生きる室町の人同士はやらなかったんじゃないかなと思うんですよね。暴力の本当の怖さを知っていたから。

僕も、高野さんほどじゃないけれど、学生時代にインドやパキスタンの田舎を旅行したことがあって、そのとき感じたアジアの僻地のイメージを自分が書く日本中世史の本に投影させているようなところもあるんですが。ああいった所の人たちも、いきなり手を出したりはしませんよね。手を出すのは最後の手段で、出したら殺し合いになるかもしれないってわかっているから。

高野 そうですよね。

清水 暴力の怖さを知っている人は制御していて、そうでない人は限度を知らないところがある。東京で起きる暴力の方が、よほど脈絡がなくて怖いなって思いますよね。

高野 あと、東京で僕が怖いと思うのは、仲裁する人がいないですよね。喧嘩が起きると、みんなもう。

清水 見て見ぬふりをしてそそくさと……。

高野 アジア・アフリカなんて、何かトラブルがあると、必ず誰かが中に割って入りますからね。まったく関係なくても。

清水 たぶん入る人は地域の顔役なんですよね。「俺の顔を立ててくれ」って言って仲裁する。

高野 見逃せないんでしょうね、きっとね。

清水 ああ、それもありますよね、気質的に。

高野 でも、そういうのは日本ではもうなくなってきているので、そういう点が怖いですよね。

清水 戦後しばらくは、そういうお節介なおじさんが都会にも田舎にもいました。喧嘩があると、「何だ、何だ」って言って飛んでくる人が。

高野 ちょっとヤバい感じの人もいましたけどね。

清水 今はすっかり見かけないですものね。

以前、神戸市で中学生が子どもを殺傷する事件が起きたとき、子どもたちに「なぜ人を殺してはいけないの?」と聞かれたら、親はどう答えたらいいんだっていうことが、ひとしきり話題になりましたよね。あれは愚問だなって僕は思っていて、中世の日本人なら明確に、「人を殺したら、自分や家族も同じ目に遭うからだ」って答えるでしょう。そのことが肌でわかっているから、そもそも「なぜ殺してはいけないのか」 という問いが生じる余地がないんですよね。ソマリの人もたぶん同じでしょうけど。 今の日本は、殺し殺されっていうことを肌身で感じない社会、死と離れている社会になってるから、そういうのんきなことを言っていられるんだろうなあと思いますね。

※本書に掲載されている注釈については、割愛しております。

世界の辺境とハードボイルド室町時代

作者:高野 秀行、清水 克行
出版社:集英社インターナショナル
発売日:2015-08-26
  • Amazon
  • honto
  • e-hon
  • 紀伊國屋書店
  • 丸善&ジュンク堂
  • HonyzClub